トコヨノクニ――合わせ鏡
侑子は鏡の迷路を進んでいた。手を引く裕貴の「すごいな」「外から見るより、ずっと広く感じるな」という声が、時折前方から聞こえてくる。
やがて、少し開けた空間に出た。透明なベンチが数台、ひっそりと置かれている。休憩所なのだろうか。
「他のお客さん、誰も来ないね」
足を止めた二人は、来た道を振り返った。後続の近づいてくる気配はない。
「地味な佇まいだったから、目立たないんだろうな。ミラーハウスって名前も捻りがないし」
そう答えた裕貴は、ベンチに腰掛けた侑子の隣に座った。
「俺には好都合だけど」
不意に顔を寄せ、侑子の頬に軽く口づける。
「ちょっと。遊園地の人、見てるかもしれないよ」
「カメラとか?」
「そう」
裕貴はまるで気にした様子もなく笑っている。
「これだって、昨日野本くんがつけたんでしょ」
侑子は自分の首筋を指で示した。襟元には、赤い痕がいくつか点々と残っている。
「まあね」
「反省してないね」
「してるって」
どうだか、と侑子は笑った。
「なぁさっきの鏡、ちょっと出してみて」
「これ……?」
バッグから、青い螺鈿細工のミラーを取り出す。その鱗模様を目にすると、やはり胸が鳴った。
裕貴はミラーを受け取ると、向かいの大きな鏡に映る侑子の顔の下に、鱗模様が見えるようにかざした。
「やっぱりこの模様、侑子によく似合う。色が合ってるのかな。この柄を見た瞬間、侑子のだって思ったんだ」
鏡の中、侑子の顔のすぐ下で、青い螺鈿の鱗が煌めいている。光を受けるたびに青や紫、淡い桃色へと色を変えるその輝きは、ユウキが身につけていた硝子の鱗によく似ていた。
――おそろいだね
白いワンピースを同じ色の鱗で埋め尽くし、ユウキと並んで鏡を覗き込んだ日のことが、胸によみがえった。
「それ、どういう意味なの」
「ん? 侑子にぴったりって意味だよ。青が似合う。とても綺麗だ」
どんな顔をして裕貴を見ればいいのだろう。
侑子は目を逸らし、ミラーを持つ裕貴の手にそっと自分の手を添えた。
「そろそろ先へ行こう。さっきマップを確認したらさ、ここを出てすぐ目の前が飲食店街だよ。飯にしよう」
侑子が頷くと、裕貴は再びその手を握り、少し先を歩き始めた。
上下左右を鏡に囲まれ、侑子は次第に平衡感覚が溶けていくような心地に陥った。
――合わせ鏡。至るところ、合わせ鏡だ。私は今、合わせ鏡の真ん中にいる
小学生の頃に読んだ、オカルト雑誌のコラムが頭をよぎる。
『午前零時ぴったりに大きな鏡の前で合わせ鏡をしながら、ある呪文を繰り返し唱えると、今いる世界とは別のパラレルワールドへ行くことができる』
腕時計の針が指そうとしているのは午後零時だし、侑子は呪文を知らない。
――そういえば、ユウキちゃんと初めて会った日にも思い出したっけ
あのコラムを思い出すのは、これで二度目だった。ユウキから並行世界の話を初めて聞いたときの衝撃は、今でもはっきりと覚えている。
――私はもう、子供じゃない……
オカルト雑誌に怯える年齢ではない。あれほど嘘みたいな体験をしたあとで、今さらそんな話を信じるなという方が無理なのかもしれない。それでも、いつまでもあの場所に戻ることばかり夢見ていたくはなかった。
――期待しちゃだめだ。私は私の現実を生きる。思い出を大切にすることと、そこに縋り続けることは違う。今、向き合ってくれる人に真摯でいたい
戻ってきてから六年。
十四歳だった侑子は、二十歳になっていた。
「ここが出口だって」
足を止めた裕貴の背中に、侑子は軽くぶつかった。振り返った彼の優しい笑顔に、ささくれ立っていた心が少しだけほどける。
「このドア狭いな。並んで出るのはキツそう。一列で行こう」
先に立った裕貴が、出口のドアを押し開いた。
雑踏の音と夏の空気が流れ込んでくる。すぐそこが外なのだと分かった。
幻覚から現実へ戻るときのような、名残惜しくも、ひどく安心する感覚があった。
「おつかれさまでした。お足元、段差ですのでご注意くださいね」
係員の声が、すぐ手前から聞こえてくる。
七月、正午の日差しは眩しい。
――私も早く、外に出よう
裕貴が手を差し伸べてくれている。
侑子はその手の上に、確かに自分の手を重ねた。
ギターコードを押さえる裕貴の指を、いつも見てきた。指先はごつごつとして、皮膚が硬くなっている。侑子を愛してくれる指だった。
その指が侑子の手を包み、右足がドアの向こうへ踏み出すのを支えた。
――はずだった。
「侑子?」
呆然とした裕貴の声が、宙を漂った。
彼はほかにも何かを口走ったが、周囲の人の耳には届かなかった。すぐ横にいた係員が、悲鳴を上げたからだった。
侑子の姿が、消滅した。
第二章 終




