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青い半魚人  作者: 松下真奈
第二章
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トコヨノクニ――合わせ鏡

 侑子は鏡の迷路を進んでいた。手を引く裕貴の「すごいな」「外から見るより、ずっと広く感じるな」という声が、時折前方から聞こえてくる。

 

 やがて、少し開けた空間に出た。透明なベンチが数台、ひっそりと置かれている。休憩所なのだろうか。

「他のお客さん、誰も来ないね」

 足を止めた二人は、来た道を振り返った。後続の近づいてくる気配はない。

「地味な佇まいだったから、目立たないんだろうな。ミラーハウスって名前も捻りがないし」

 そう答えた裕貴は、ベンチに腰掛けた侑子の隣に座った。

「俺には好都合だけど」

 不意に顔を寄せ、侑子の頬に軽く口づける。

「ちょっと。遊園地の人、見てるかもしれないよ」

「カメラとか?」

「そう」

 裕貴はまるで気にした様子もなく笑っている。

「これだって、昨日野本くんがつけたんでしょ」

 侑子は自分の首筋を指で示した。襟元には、赤い痕がいくつか点々と残っている。

「まあね」

「反省してないね」

「してるって」

 どうだか、と侑子は笑った。

「なぁさっきの鏡、ちょっと出してみて」

「これ……?」

 バッグから、青い螺鈿細工のミラーを取り出す。その鱗模様を目にすると、やはり胸が鳴った。

 裕貴はミラーを受け取ると、向かいの大きな鏡に映る侑子の顔の下に、鱗模様が見えるようにかざした。

「やっぱりこの模様、侑子によく似合う。色が合ってるのかな。この柄を見た瞬間、侑子のだって思ったんだ」

 鏡の中、侑子の顔のすぐ下で、青い螺鈿の鱗が煌めいている。光を受けるたびに青や紫、淡い桃色へと色を変えるその輝きは、ユウキが身につけていた硝子の鱗によく似ていた。

――おそろいだね

 白いワンピースを同じ色の鱗で埋め尽くし、ユウキと並んで鏡を覗き込んだ日のことが、胸によみがえった。

「それ、どういう意味なの」

「ん? 侑子にぴったりって意味だよ。青が似合う。とても綺麗だ」

 どんな顔をして裕貴を見ればいいのだろう。

 侑子は目を逸らし、ミラーを持つ裕貴の手にそっと自分の手を添えた。

「そろそろ先へ行こう。さっきマップを確認したらさ、ここを出てすぐ目の前が飲食店街だよ。飯にしよう」

 侑子が頷くと、裕貴は再びその手を握り、少し先を歩き始めた。

 

 上下左右を鏡に囲まれ、侑子は次第に平衡感覚が溶けていくような心地に陥った。

――合わせ鏡。至るところ、合わせ鏡だ。私は今、合わせ鏡の真ん中にいる

 小学生の頃に読んだ、オカルト雑誌のコラムが頭をよぎる。

『午前零時ぴったりに大きな鏡の前で合わせ鏡をしながら、ある呪文を繰り返し唱えると、今いる世界とは別のパラレルワールドへ行くことができる』 

 腕時計の針が指そうとしているのは午後零時だし、侑子は呪文を知らない。

――そういえば、ユウキちゃんと初めて会った日にも思い出したっけ

 あのコラムを思い出すのは、これで二度目だった。ユウキから並行世界(パラレルワールド)の話を初めて聞いたときの衝撃は、今でもはっきりと覚えている。

――私はもう、子供じゃない……

 オカルト雑誌に怯える年齢ではない。あれほど嘘みたいな体験をしたあとで、今さらそんな話を信じるなという方が無理なのかもしれない。それでも、いつまでもあの場所に戻ることばかり夢見ていたくはなかった。

――期待しちゃだめだ。私は私の現実を生きる。思い出を大切にすることと、そこに縋り続けることは違う。今、向き合ってくれる人に真摯でいたい

 戻ってきてから六年。

 十四歳だった侑子は、二十歳になっていた。

 

「ここが出口だって」

 足を止めた裕貴の背中に、侑子は軽くぶつかった。振り返った彼の優しい笑顔に、ささくれ立っていた心が少しだけほどける。

「このドア狭いな。並んで出るのはキツそう。一列で行こう」

 先に立った裕貴が、出口のドアを押し開いた。

 雑踏の音と夏の空気が流れ込んでくる。すぐそこが外なのだと分かった。

 幻覚から現実へ戻るときのような、名残惜しくも、ひどく安心する感覚があった。

「おつかれさまでした。お足元、段差ですのでご注意くださいね」

 係員の声が、すぐ手前から聞こえてくる。

 七月、正午の日差しは眩しい。

――私も早く、外に出よう

 裕貴が手を差し伸べてくれている。

 侑子はその手の上に、確かに自分の手を重ねた。

 ギターコードを押さえる裕貴の指を、いつも見てきた。指先はごつごつとして、皮膚が硬くなっている。侑子を愛してくれる指だった。

 その指が侑子の手を包み、右足がドアの向こうへ踏み出すのを支えた。


――はずだった。


「侑子?」

 呆然とした裕貴の声が、宙を漂った。

 彼はほかにも何かを口走ったが、周囲の人の耳には届かなかった。すぐ横にいた係員が、悲鳴を上げたからだった。

 侑子の姿が、消滅した。



第二章 終

 

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