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青い半魚人  作者: 松下真奈
第二章
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トコヨノクニ――蓋 

 大学生の夏休みは長い。

 モラトリアムとはよく言ったものだと侑子は思う。授業はないが、講習やサークル活動で毎日のように大学へ足を運んでいた。

「それ、全部運ぶの?」

 階段の踊り場で、上から降りてきた従兄弟に声をかけられた。

「蓮くん」

 侑子はスタジオでの練習を終え、部室に機材を運んでいるところだった。軽音サークルの部室は最上階にあり、今日は運悪くエレベーターが故障している。

「手伝うよ」

「ありがとう。助かる」

 侑子はありがたく申し出に甘えた。テキストの詰まったバッグに加えて、ギターも背負っている。いつも以上に荷物が多かった。

「蓮くんも、今終わったとこ?」

「活動じゃないよ。借りてた三脚を返してきただけ」

 写真部に所属する蓮とは、サークル棟で顔を合わせることが多い。彼が利用する暗室も侑子の部室と同じ階にあった。

「今日、裕貴は?」

「来てるよ。さっきまで一緒に片付けてたから、多分もう部室にいるんじゃないかな」

 裕貴も侑子と同じ軽音サークルに所属していた。大学は違うが、二人は同じバンドでボーカルとギターを担当している。中学時代から変わらない組み合わせだ。

「本当に仲いいよね」

「うん」

 素直に頷く侑子を見て、蓮は微笑んだ。

 二年前、ヒノクニとの繋がりが突然途絶えた頃の彼女を、蓮は覚えている。あの時は見ているのもつらかった。

 だからこそ、今の侑子のそばに裕貴がいることを喜ばしく思っていた。

 ユウキのことは、まだ忘れられないのかもしれない。それでも、もう会うことも手紙を交わすこともできないのなら。

――ゆうちゃんは、こっちの世界で幸せになった方がいい

 裕貴なら申し分ない。侑子を昔からよく知っていて、趣味も合う。何より、彼女に夢中なのだ。侑子も裕貴を信頼している。

 蓮はそう信じていた。

 部室の前に着くまでは。



◆◆◆


 

「だから、彼女いるって」

 廊下の角を曲がったところで、聞き慣れた声がした。

 裕貴だった。

 侑子と蓮は顔を見合わせる。

「それって、五十嵐さん?」

「そう」

「え、その話本当だったの?」

 相手は同じサークルの女子学生らしい。

「なんだよ、その反応」

「だって、あんまりそう見えないから」

 侑子は思わず足を止めた。

「……どういう意味?」

「そのままの意味。裕貴は分かりやすいけど、五十嵐さんからは……分かんない」

「何が」

「好きってこと」

 返事が途切れた。

 侑子はドアの前まで進めずにいた。隣の蓮も、何も言わない。

「裕貴ばっかり五十嵐さんのこと見てるじゃん」

「そんなことない」

 今度の返事は早かった。

「そう?」

「そうだよ」

「そうかな」

「当たり前だろ」

 また、沈黙が落ちる。

 侑子はバッグの持ち手を握りしめた。まるで自分の胸の内を覗かれているようで、居心地が悪い。

――当たり前

 裕貴の声が耳に残った。

 自分は裕貴が好きだ。そうでなければ、恋人になんてならない。

 当たり前のことだ。

 そのはずなのに。

「でもさ」

 女子学生が口を開いた。

「五十嵐さんって時々、誰もいないところ見てない?」

 心臓が跳ねた。

 隣で蓮が唇を引き結ぶ。

「何それ」

「なんとなく。たまにそう見えるだけ」

「変なこと言うなよ」

「ごめん。私の自惚れか」

 女子学生は笑った。

「ちょっといいなって思ってたから。隙があるならって思っただけ」

「ねえよ」

「はいはい」

 侑子はようやくドアを開けた。

「あ」

 女子学生が一瞬だけ目を丸くする。

「お疲れ」

「……お疲れさま」

 彼女はそれ以上何も言わず、荷物を肩にかけて出ていった。

 裕貴は青ざめていた。

「侑子。今の……」

「聞こえてた」

「違うんだ」

「うん。大丈夫」

 分かってる、と侑子は頷いた。

 裕貴が彼女の誘いを断ったことは、ちゃんと分かっている。

 問題はそこではなかった。

 あの言葉を否定するべきだったのだ。けれど、すぐにはできなかった。

「……さっきの子が言ってたこと、気になってるんだけど」

 沈黙を破ったのは蓮だった。

 普段と変わらない抑揚のない声。しかし、その表情は険しい。

「『裕貴ばっかり、ゆうちゃんのこと見てる』ってやつ」

「蓮くん」

「ゆうちゃんも、否定できなかったでしょ」

 侑子は口を閉ざした。

 否定したい。今もそう思っている。それなのに、言葉が出てこない。

「俺は二人が付き合ってるなら、それでいいと思ってたよ。でも、どっちかだけが無理してるなら話は別でしょ」

「無理なんかしてない」

 裕貴が答えた。

「俺が好きでやってるんだから」

「野本くん」

「本当にいいんだよ。俺は」

 裕貴が侑子を見た。

 目が合った瞬間、さっきの言葉が蘇る。

――裕貴ばっかり五十嵐さんのこと見てるじゃん

 今も、そうだった。

 裕貴は自分を見ている。

 では、自分は。

「侑子」

 蓮がいるにもかかわらず、裕貴は彼女を名前で呼んだ。

「……野本くん」

「俺、付き合いたての頃、しょっちゅう言ってたよね。こっち見てって」

「うん」

「俺のこと、見てる?」

 裕貴は目を逸らさなかった。

「今ここにいる俺を、ちゃんと見てる?」

 何か答えなければと思った。

 けれど、何を言えばいいのか分からない。

 好きだと言えばいい。それだけで済むはずなのに、口を開けば別の何かまで零れ落ちてしまいそうだった。

「俺のこと……本当に好きなの?」

 強くぶたれたような衝撃が、身体を走った。

 もちろん、誰からも叩かれていない。ただ裕貴が絞り出した言葉に、侑子は愕然としていた。

 答えられないままでいると、裕貴はやがて目を伏せた。

「……ごめん。すごく勝手なこと聞いた。勇輝さん以上になれなくてもいいって言ったの、俺なのにな」

 久しぶりに、その人の名を聞いた。

 侑子の肩が小さく揺れる。裕貴は気づいただろうか。

「本当に、ごめん」

「……ううん。私こそ……」

「謝らないで」

 裕貴の手が、おそるおそる侑子の手に触れた。侑子は握り返した。彼を安心させたいのか、自分の気持ちを鎮めたいのか。それさえ分からない。

「……とりあえず、場所変えない?」

 蓮がため息をついた。

「ここ部室だから。誰か来たら、俺まで巻き込まれて気まずい」

「悪かったよ」

「昼飯奢って。それで水に流してやろう。ゆうちゃんの分も」

「私はいいよ」

「いや、奢らせていただきます」

「よし」

 三人は部室を後にした。

 他愛のないやり取りを交わすうち、足取りは少しずついつもの調子を取り戻していく。

 けれど侑子の胸には、白波が立ったままだった。

 終わらせたつもりでいた気持ちは、何ひとつ終わっていなかった。

――どうすればいい? どうすれば、野本くんと同じ高さで向き合える?

 ユウキを恋い慕う感情は、皮膚の内側に沈着した色素のように、擦っても洗っても薄まってはいない。

 ただ、蓋をしていただけだった。

 閉じ込めたものは、侑子が用意した器には大きすぎたのだ。ずっと内側から蓋を押し上げ、ほんの少しの衝撃で外れてしまうほどに。

――野本くんは優しすぎる

 自分が何を抱えているのかも知らずに、裕貴は受け入れようとしてくれている。

 彼のそばにいる間は、考えなくて済んだ。

 悲しさも、絶望も、不安も。あの世界に残してきた人のことさえ。

 それが心地よくて、侑子は彼の優しさに寄りかかり続けてきた。

――何も考えなくて済む

 かつて自分が抱いたその思いが、今になって胸に刺さる。

 裕貴はずっと侑子を見ていた。

 なのに自分は、彼のそばにいることで、別の誰かを想う苦しみから逃げていただけではないか。

 今さらそんなことに気づくなんて。

 侑子は握られた手の感触を思い出した。

 あの優しさに、これ以上甘えてはいけない。

――話そう

 今の自分にできる、せめてもの誠意だった。

――ユウキちゃんのこと。ヒノクニのこと。私があの世界で一年間を過ごしたこと。全部、野本くんに話そう

 信じてもらえるかは分からない。

 気が狂っていると思われるかもしれないし、話を聞いた裕貴が離れていくかもしれない。

 それでも、打ち明けなければ真正面から向き合えない。

 蓋を開けて、中にあるものをすべて見せる。

 そこからでなければ、自分たちは始められない。

 侑子はそう思った。

 

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