トコヨノクニ――煙
現実感のないまま、侑子は立ち上る細い煙を見つめていた。
真っ直ぐに線を描きながら、次第にぐにゃぐにゃと踊るように揺らめき、最後には散るように消えていく。
――消えた煙は、どこに行ったんだろう
立ち上る煙の向こう、香立ての奥に柔和な笑みを浮かべる玄一の写真が見える。
黒いフレームに縁取られた遺影だった。
「侑子ちゃん。来てくれてありがとう」
そう声をかけながら侑子の隣に膝をついたのは喜久子だった。玄一の妻で、裕貴の祖母である。
ぼんやりと手を合わせたままだった侑子は、慌てて喜久子に向き直った。
「この度は――」
「やめよう、そういう挨拶は」
言いかけた侑子を遮り、喜久子は笑った。
「聞き飽きちゃった。会う人会う人、同じこと言ってくるんだもん」
からからと明るく笑う彼女は、やはりいつ見ても若々しかった。玄一と同い年だというのだから、明らかに実年齢より若く見える。言葉尻からも年齢を感じさせない、不思議な人だった。
「ゲンちゃんだって、侑子ちゃんからそんな湿っぽい挨拶聞くの、寂しいと思うから。ね」
むらなく薄茶に染めたロングヘアは艶やかだ。その髪を耳にかけながら、喜久子は遺影に微笑みかけた。
「侑子ちゃんからの手紙、嬉しそうに読んでたよ。この話、裕貴から聞いてる?」
「はい」
入学式の日、侑子が書いた手紙は裕貴から玄一に手渡された。その六時間後、容態が急変して玄一は息を引き取ったのだ。十日前のことだった。
「私ね、明日からまたライブハウスに戻るんだ」
喜久子の手が蝋燭の炎を扇いで消した。指を彩る指輪が煌めいた。
「『早くない?』なんて言う人もいるけどさ。いつまでも喪に服して、ただ手を合わせてるわけにもいかないよ。止まったら嫌な方に引っ張られちゃうもん」
ふっと短く笑った喜久子の横顔が、一瞬だけ年相応に見えた気がして、侑子は目を瞠った。
「長く生きてるとね、その分、身近な人との別れを経験するものなんだよ。当たり前だけどさ。祖父母でしょ、両親でしょ、恩師や兄弟、それから友達とか」
仏間の窓は開いていたが、線香の香りはいつまでも滞留していた。侑子も喜久子も、もう鼻が慣れてしまっている。
「生きていればいるだけ、順当に死は身近になっていくものなんだ。若い頃には漠然としてて恐怖でしかなかったけど、身近になると不思議とそうでもなくなるんだよね」
「そうなんですか?」
疑問がそのまま口から滑り出た。喜久子は笑った。
「そりゃ、人によってはいつまでも死は怖いかもしれないけど。私はね、そうでもないタイプ」
はは、と笑って喜久子は再び夫の遺影に視線を戻した。
「身近な人があっち側に行くたびに、自分もいつか同じ側に行くだけなんだなぁって思えるんだ。だから怖くない。でもさすがに、これだけいつも一緒だった人があっけなく逝ってしまうと……悲しみに身を任せてしまいたくなるでしょ。それは私にしてみたら、あまりよくない引っ張られ方なの。自分自身まで見失う気がして」
「……なるほど」
「今、なんだか嫌な世の中じゃない? 死が身近になりすぎてる。順番飛ばしが多すぎる。油断したら、すぐ気持ちを持っていかれちゃう」
侑子は黙って喜久子の横顔を見つめた。
「だから戻らなきゃ。いつもを整えなきゃ。私にとってそれは音楽。ゲンちゃんと私の間にも、いつも音楽があった。鳴らすのをやめたら、私たちの時間まで止まってしまうでしょ」
その言葉に、侑子はある感情を思い出した。
側村で追体験した、一組の夫婦が残した感情だった。
正彦とちえみが共に過ごした時間は、玄一と喜久子が過ごした時間よりずっと短かっただろう。しかし侑子が感じた彼らの『愛』は、時間に比例しない濃さを持っていた。
「憧れます」
侑子の言葉に、喜久子は大きく笑った。
「さあ、あっちで音楽でも聴こう」
喜久子に手を取られ、侑子は座布団から立ち上がった。最後にもう一度遺影へ目礼して、仏間を後にした。




