トコヨノクニ――道標
「結局、学祭も修学旅行もないまま卒業しちゃったね」
買い物帰りの道を並んで歩きながら、愛佳が「あーあ」とため息をついた。
「でも卒業旅行は行けたじゃない。楽しかったね」
「それくらいやらせてくれなきゃ! 高校生活、ほとんどイベントがないまま終わっちゃったんだから」
令和四年四月二日の夕方だった。
明日は日曜日。侑子も愛佳も、それぞれの大学の入学式を控えている。
高校生活の三分の二を、マスクで顔の半分を覆ったまま過ごした。卒業した今も、口元を隠さずに外を歩ける日は、まだ遠そうだった。
それどころか、世界情勢は一層不穏になっている。
二月の終わり、遠い国で軍事侵攻が始まった。街が破壊され、人々が住み慣れた土地を追われていく。連日流れるニュース映像は、侑子にも強い衝撃を与えた。
図書館やスーパーなど普段よく訪れる場所でも、戦禍に見舞われた人々への募金箱を見かけるようになった。フィギュアスケート好きの望美は、「純粋に楽しめなくなっちゃった」とため息をついていた。
分断され、きな臭さを増していく世界は、どこへ向かうのだろう。
次々に流れてくる情報の、何を信じればいいのか。
明日から始まる新しい日常で、何を道標にして歩いていけばいいのか。侑子にはまだ分からなかった。
◆◆◆
『明日、そっちの入学式は何時に終わるの?』
「お昼前には終わるよ」
『駅で待ち合わせよう。俺の方が遅かったら、どこかで時間潰してて』
風呂上がりの髪をタオルで拭きながら、侑子は裕貴と通話していた。
スピーカー越しに聞こえる声は、いつも穏やかで耳に心地よい。歌う時より少し低いその声が、波立っていた心を静めてくれる。
『どうかした?』
黙り込んでいたことに気づき、侑子は顔を上げた。
「ごめん、ちょっと考え事。明日緊張するなぁって。知らない人ばかりだし」
『蓮が一緒でしょ?』
「学部が違うから、時間も違うんだよ」
『そっか。侑子たちの大学、大きいもんな』
侑子が選んだのは文学部だった。万葉集をはじめ、和歌について学びたいと思ったのがきっかけだ。別の高校に通っていた蓮も同じ大学の工学部へ進学する。
『俺も侑子と同じとこ行きたかったな。もっと真面目に勉強しとくんだった』
「まだそんなこと言ってる」
『本音だよ』
「近くなんだから、今までとそんなに変わらないよ。軽音サークル入るんでしょ?」
『侑子は?』
「多分。見学には行ってみようと思うけど」
『じゃあ俺も入るしかないな』
侑子は笑った。
二人の大学は近く、大学の垣根を越えて活動するサークルも多い。軽音楽系の団体には、他大学の学生も参加できるものがあった。
『じゃあ明日。よろしくな』
「おやすみ」
通話を終えると、侑子は肩にタオルをかけたまま机の上の書きかけの手紙に目を向けた。
裕貴の祖父、玄一へ宛てたものだ。明日、入院先へ面会に行く裕貴に託そうと思っている。
玄一は三か月前から心臓を患い入院していた。感染症対策のため、家族ではない侑子は一度も見舞いに行けていない。
裕貴が病室からビデオ通話をつないでくれたことは何度かあった。しかし画面越しに見る玄一は、そのたびに痩せていくようだった。
――ゲンさん、あんなにお爺ちゃんだったっけ
初めて顔を合わせたのは五年以上前。まだそれだけしか経っていない。
それなのに入院着を身につけた玄一は、侑子の知っている彼よりずっと年老いて見えた。
――また……会えるよね
レコードに囲まれたあの部屋で、もう一度円盤に針が落ちる音を聞きたかった。次に訪ねたら聞いてみたい音楽の話も、まだたくさんある。
「書かなきゃ」
誰かに手紙を書くのは久しぶりだった。
最後に書いたのは二年前。ヒノクニとの繋がりが途絶えた後、結局届けられなかったユウキへの手紙だ。
涙で波打った便箋。滲んでしまった文字。
あの時のことを思い出すと、今も胸が苦しくなる。
「……この手紙は大丈夫」
今度は届く。確実に。
明日、裕貴に手渡せば、その日のうちに玄一の手元へ渡るはずだ。
侑子は便箋に目を落とした。
書きたいことは、まだたくさんある。
苦しい記憶を振り切るように、再びペンを走らせた。




