トコヨノクニ――余裕
流行り病が「流行り」と呼べるものなのか、もはや疑問にすら思わないほど世の中に浸透していった。
侑子と裕貴は今まで通り一緒にバンド活動を続け、時間が合えば同じ電車で通学した。少しだけ二人でいる時間が増えて、その増えた時間は誰もいない部屋の中で過ぎることもあった。
二人きりになると、裕貴はよく侑子を抱き寄せた。
そんな時、侑子は最も強く裕貴を異性として意識した。
自分より大きな身体も、低い声も、触れた時の熱も、ヒノクニにいる彼とは何もかも違っている。
裕貴はいつも侑子を求めていた。それでも時折、何かを確かめるように動きを止めることがあった。
侑子の顔をじっと見つめる。
「どうしたの?」
そう尋ねることもあったし、侑子の方から彼に触れることもあった。
すると安心したように、止まっていた時間がまた動き出す。
「見て」
裕貴は度々そう口にした。
最初は何を求められているのか分からなかった。
けれど何度も聞くうちに、それが単に目を合わせろという意味ではないような気がしてきた。
今ここにいる自分を見てほしい。
そんな願いが混じっているように聞こえた。
侑子は裕貴に求められることを嫌だとは思わなかった。
むしろ彼のそばにいる時間には、奇妙な安堵があった。
何も考えなくて済む。
――悲しさも、絶望感も、不安も、将来も、過去さえも
ヒノクニとのつながりが途絶えて以来、考え始めればいくらでも沈んでいけた。ユウキは無事なのか。何が起きたのか。もう二度と手紙は届かないのか。
答えの出ない問いばかりが頭の中に残っている。
けれど裕貴の体温を感じている間だけは、それらが遠ざかる。
「こっち見て」
また同じ言葉が聞こえた。
侑子は言われた通り裕貴を見ようとする。
けれど自分が本当に彼を見ているのかは、全く自信がないのだった。
◆◆◆
裕貴は目を細めた。
すぐそばに、ずっと欲しくてたまらなかった人がいる。
――いまだに、信じられないな
自分だけを見てほしかった。
自分しか聞いたことのない声を聞かせてほしかった。
河原で初めて気持ちを告げた時も、それから二人きりで過ごすようになってからも、侑子は裕貴を拒まなかった。
試すように『手塚勇輝』の名を出したこともある。侑子が目に見えて動揺することはなかった。
正直、意外だった。
だからその時は、それ以上彼のことを考えなかった。
――だけど
真っ直ぐに射抜くように見つめられると、途端に自信がなくなってくる。
――本当に俺を見ているのだろうか
侑子の瞳に映り込む自分の輪郭は、本当に自分のものなのか。
手塚勇輝の容姿を、裕貴は知らない。
愛佳や遼は写真で見たことがあるらしいが、裕貴には見せてくれと申し出る勇気が出なかった。
見てしまったら最後。
何かが終わってしまう予感がした。
侑子の瞳に映るのが、自分ではない誰かに変わる気がして怖かった。
「野本くん?」
呼ばれて、裕貴は思考の渦を追いやった。
相変わらず名字で呼ぶ侑子に苦笑いする。かといって下の名を呼ばれることにも抵抗があった。
ユウキ。
彼と同じ名前なのだ。なんて皮肉だ。
「ゆうこ」
二人きりの時、裕貴は侑子を名前で呼んだ。
柔らかい響きと収まりのいい音が好きだった。自分の声で呼ぶ彼女の名前は、それだけで特別なものに思える。
「侑子」
呼べば、侑子はこちらを見る。
それだけでいいはずなのに、裕貴はいつも不安になる。
――今、何を考えてる?
何も考えなくていい。
誰のことも。
特定の誰かに思いを馳せないでほしい。たとえそれが裕貴自身であったとしても。
誰かの姿を思い浮かべるほどの余裕を、侑子に与えたくなかった。
ただ今ここにいてほしい。
自分の声と、自分の体温だけを感じていてほしい。
そうしている間だけは、侑子の世界に自分しかいないと思える。
その確信がなければ、裕貴は彼女のそばにいる自信すら持てなかった。




