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青い半魚人  作者: 松下真奈
第二章
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トコヨノクニ――余裕

 流行り病が「流行り」と呼べるものなのか、もはや疑問にすら思わないほど世の中に浸透していった。


 侑子と裕貴は今まで通り一緒にバンド活動を続け、時間が合えば同じ電車で通学した。少しだけ二人でいる時間が増えて、その増えた時間は誰もいない部屋の中で過ぎることもあった。


 二人きりになると、裕貴はよく侑子を抱き寄せた。

 そんな時、侑子は最も強く裕貴を異性として意識した。

 自分より大きな身体も、低い声も、触れた時の熱も、ヒノクニにいる彼とは何もかも違っている。

 裕貴はいつも侑子を求めていた。それでも時折、何かを確かめるように動きを止めることがあった。

 侑子の顔をじっと見つめる。

「どうしたの?」

 そう尋ねることもあったし、侑子の方から彼に触れることもあった。

 すると安心したように、止まっていた時間がまた動き出す。


「見て」

 裕貴は度々そう口にした。

 最初は何を求められているのか分からなかった。

 けれど何度も聞くうちに、それが単に目を合わせろという意味ではないような気がしてきた。

 今ここにいる自分を見てほしい。

 そんな願いが混じっているように聞こえた。


 侑子は裕貴に求められることを嫌だとは思わなかった。

 むしろ彼のそばにいる時間には、奇妙な安堵があった。


 何も考えなくて済む。


――悲しさも、絶望感も、不安も、将来も、過去さえも


 ヒノクニとのつながりが途絶えて以来、考え始めればいくらでも沈んでいけた。ユウキは無事なのか。何が起きたのか。もう二度と手紙は届かないのか。

 答えの出ない問いばかりが頭の中に残っている。

 けれど裕貴の体温を感じている間だけは、それらが遠ざかる。


「こっち見て」


 また同じ言葉が聞こえた。

 侑子は言われた通り裕貴を見ようとする。

 けれど自分が本当に彼を見ているのかは、全く自信がないのだった。



◆◆◆



 裕貴は目を細めた。

 すぐそばに、ずっと欲しくてたまらなかった人がいる。

――いまだに、信じられないな

 自分だけを見てほしかった。

 自分しか聞いたことのない声を聞かせてほしかった。

 河原で初めて気持ちを告げた時も、それから二人きりで過ごすようになってからも、侑子は裕貴を拒まなかった。

 試すように『手塚勇輝』の名を出したこともある。侑子が目に見えて動揺することはなかった。

 正直、意外だった。

 だからその時は、それ以上彼のことを考えなかった。

――だけど

 真っ直ぐに射抜くように見つめられると、途端に自信がなくなってくる。

――本当に俺を見ているのだろうか

 侑子の瞳に映り込む自分の輪郭は、本当に自分のものなのか。

 手塚勇輝の容姿を、裕貴は知らない。

 愛佳や遼は写真で見たことがあるらしいが、裕貴には見せてくれと申し出る勇気が出なかった。

 見てしまったら最後。

 何かが終わってしまう予感がした。

 侑子の瞳に映るのが、自分ではない誰かに変わる気がして怖かった。

「野本くん?」

 呼ばれて、裕貴は思考の渦を追いやった。

 相変わらず名字で呼ぶ侑子に苦笑いする。かといって下の名を呼ばれることにも抵抗があった。

 ユウキ。

 彼と同じ名前なのだ。なんて皮肉だ。

「ゆうこ」

 二人きりの時、裕貴は侑子を名前で呼んだ。

 柔らかい響きと収まりのいい音が好きだった。自分の声で呼ぶ彼女の名前は、それだけで特別なものに思える。

「侑子」

 呼べば、侑子はこちらを見る。

 それだけでいいはずなのに、裕貴はいつも不安になる。

――今、何を考えてる?

 何も考えなくていい。

 誰のことも。

 特定の誰かに思いを馳せないでほしい。たとえそれが裕貴自身であったとしても。

 誰かの姿を思い浮かべるほどの余裕を、侑子に与えたくなかった。

 ただ今ここにいてほしい。

 自分の声と、自分の体温だけを感じていてほしい。

 そうしている間だけは、侑子の世界に自分しかいないと思える。

 その確信がなければ、裕貴は彼女のそばにいる自信すら持てなかった。

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