トコヨノクニ――熱
「ゆうちゃん!」
校門を出たところで、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、手を振りながら駆けてくる裕貴が見えた。
「今日、この後空いてる?」
「うん」
「じゃあさ」
「多摩川行く?」
「分かってるね」
マスクで目元しか見えなくても、裕貴が大きく笑っているのは分かった。
分散登校とオンライン授業がすっかり定着した二学期。非日常だったはずの暮らしは、いつの間にか、ただの日常の顔をしていた。
侑子と裕貴の登校日は重なっている。短い在校時間を終えると、二人は真っ直ぐ帰らず、河原に寄った。歌うために。
部活は再開の目処が立たない。音楽スタジオは、開いている店に客が流れ込むのか、前より予約が取りづらかった。
「弁当持ってきた?」
「うん」
「俺、ちょっとコンビニ寄っていい? 昼飯買ってくる」
二人でいつもの河原で昼食をとることも、すっかり習慣になっていた。
以前より乗客の減った電車に揺られ、最寄り駅で降りる。その間、二人の話題に上るのは音楽のことばかりだった。
感染症の話は、あえてしない。
それが二人の間の、暗黙の了解だった。
◆◆◆
「寒くなってきたよね」
「来週から冬服だもんな」
空の弁当箱をリュックに押し込むついでに、薄手のパーカーを引っ張り出す。制服の上から羽織ると、肩のあたりがふっとほどけた。
「今日はそっちから歌って」
裕貴がギターを爪弾く。
流れ出した旋律を聞いただけで、侑子にはすぐに曲が分かった。
二人は交互にギターと歌の担当を替える。ときには、互いの声を重ねながら。
今日の最初のボーカルは侑子だった。曲は裕貴が書いたものだ。
「ああ、気持ちいい」
侑子は、この曲の終わり方が特に好きだった。始終軽快な調子で、歌っていると自然に明るい気分になってくる。
「今年、学園祭があったら絶対にこの曲やりたかったよね」
言いながら、再びマスクをつけた。
歌い終えたらすぐに装着する。それが、もはや癖になっている。何の疑問も抱かずにそうしている自分を、たまに不気味に感じることがあった。
「そうだね」
裕貴が笑って相槌を打つ。
「まあ仕方ないよ。学園祭、どこの学校も軒並み中止でしょ」
「合宿もなかったし、お祭りもなかったし、ライブにも行けなかったね。なんだか夏休みって感じしなかった」
侑子は今年の夏を振り返った。
ヒノクニへ手紙を書くことがなくなって、持て余すほど時間のある夏だった。胸にあいた空洞を埋めるように、音楽ばかり聴いていた。
「俺はゆうちゃんとここでたくさん歌えたし、結構充実してたけどな」
「それはそうだけど。でも真夏はさすがにきつかったよね。暑すぎて」
「ああ。確かに熱中症一歩手前だった」
汗だくになりながら、二人は夏の間もこの場所へ足繁く通った。周囲を気にせず大声で歌える場所は、ほかに見つからなかったのだ。
「次、何の曲にしよっか。野本くんの番だよ」
侑子はストラップを肩にかけ直し、話題を切り替えた。
「どうする? 久しぶりに洋楽のカバーでも……」
「ゆうちゃん」
言葉を遮られ、侑子は首を傾げた。
裕貴の声が、急に低くなった。
いつも聞いているはずの声なのに、まるで知らない人のように感じる。乾いた響きが、やけによそよそしかった。
「……どうしたの?」
「……」
真剣な眼差しに捉えられる。
顔の半分を布に覆われているせいで、視線だけが剥き出しだった。侑子は思わず瞬きをする。
「野本くん?」
「……ああ、くそっ」
にらめっこに負けた子供のような言葉を漏らし、裕貴はうつむいた。
けれど、笑ってはいない。
すぐに上げた顔は、苦しそうに歪んでいた。
「今日話そうって、決めてきたんだ」
逸れそうになる視線を戒めるように、裕貴はぎゅっと拳を握った。
一羽の白鷺が、川の中州に降り立つ。
それを視界の端に捉えた侑子が「あ」と指さそうとしたとき、裕貴の手が伸びてきた。
右手を取られる。
自分のものよりずっと大きく、指の長い手だった。
「好きだ」
強く握られた手のひらから、体温が流れ込んでくる。
「ゆうちゃんのことが、ずっと好きだった」
侑子は顔を上げた。
前髪のかかった黒い瞳が、真っ直ぐこちらを見ている。
いつの間に、こんなに背が伸びたんだろう。出会った頃はそう変わらなかったはずなのに、今は見上げなければ目が合わない。声だってずいぶん低くなった。——そんなことを、今さら思い知る。なぜだか、ひどく遠かった。
「好きだよ」
繰り返された言葉は、これまで幾度となく耳にしてきた裕貴の声で、けれど初めて聞く響きを持っていた。
彼が自分に特別な感情を抱いていることは、以前から気づいていた。
それなのに。
実際に言葉として差し出されると、侑子の心はひどく動揺した。突然の風に竹藪を揺さぶられたように、胸の奥がざわざわと騒ぎ出す。
――なんで考えてこなかったんだろう
裕貴の告白を聞きながら、侑子は後悔していた。
――気づいていたのに。こうなった時のことを、なんで今まで考えてこなかったんだろう。甘かったんだ。野本くんのことを、真剣に考えてこなかった
視線に耐えきれず目を伏せかけると、声が追ってきた。
「こっち見て」
「野本くん、私は」
「俺は全部欲しい。ゆうちゃんの今も、これからも」
握られた手に、さらに力がこもる。
その強さに、侑子は言葉を失った。振りほどこうと思えばできるはずなのに、彼の切実さに気圧され、動けない。
「手塚勇輝がゆうちゃんにとってどんな人なのか、話してもらおうって思ってた。でも、やめておく」
裕貴は一度、息を吸った。
「ねえ、こっち見てよ」
侑子は、とっくに彼を見ていた。
二度目の「見て」は、視線を求める言葉ではなかったのだろう。その声は、心の奥まで踏み込んでくる。
こんなふうに強く自分を求める言葉を向けられたのは、いつ以来だろう。
目の前の裕貴の顔に、褐色の肌と緑の瞳が重なった。
――……もう……手紙は届かない…………だめ、いけない。今はちゃんと向き合わないと駄目
侑子はその面影を振り払うように、握られた手に力を込めた。
何か言わなければ。唇を開きかけた、その一瞬前に、裕貴が言った。
「否定しないで。受け入れて」
間を置かず、裕貴は畳みかける。
「どれだけ時間がかかったって構わない。勇輝さん以上になれなくてもいい。だから俺を、ゆうちゃんと一番近くで触れ合える男にさせて」
二人ともギターを抱えていて、それ以上は近づけなかった。
けれど裕貴は、握った侑子の手を引き寄せると、もう片方の手で自分のマスクを外した。そして、侑子のマスクにも指をかける。
ためらう間もなく、それが外された。
あらわになった頬を、秋風が撫でる。
金木犀が香った。
――いい香り
そんなことを、どこか他人事のように思っていた。
裕貴の顔が近づいてくる。
最初に触れた唇は、驚くほど控えめだった。一度離れ、角度を変えて、今度は強く押し当てられる。
熱が伝わってきた。
――なんて熱いんだろう
無意識に目を閉じる。視界が閉ざされると、唇に触れる熱だけが、いっそう鮮やかになった。
その熱を受け止めながら、侑子は、いつだったかマスクを猿轡のようだと思ったことを、ぼんやりと思い出していた。




