トコヨノクニ――可能性
「もしもし。聞こえてる?」
『ああ、大丈夫だ。顔も見えてるよ』
「こっちもバッチリ。お父さん、お酒飲んだ?」
『はは。分かっちゃったか。さっきまで研究室の連中と飲んでたから。いや、ほんのちょっとだよ』
「明日早いの?」
『大丈夫だよ、心配しないで』
愛佳たちが帰った後、侑子はノートパソコンの画面に向かって話しかけていた。画面には父の赤ら顔。向こうは深夜二時を回るところだろう。
侑子と幹夫は時折、こんな風にテレビ通話で会話する。内容はお互いの近況から他愛もない日常の話、侑子のヒノクニでの思い出話まで多岐にわたった。父は侑子とユウキが手紙のやりとりをしていることも知っている。
侑子本人ですら話していて現実感が薄くなるような事柄も、幹夫は決して否定しなかった。ただ娘の話に相槌を打ち、興味深そうに聞き入るのだ。空返事をしているわけでもなく、数か月前にちらっと話した内容を『そういえばあの後はどうなったの?』と掘り返してくることもある。細かく記憶しているのだ。
「文通ができなくなっちゃった」
前置きなく、話したかったことを切り出した。
『母さんから少し聞いてるよ。やっぱりユウキくんとの手紙のことだったんだな。ずいぶん元気をなくしていると聞いてたけど、確かに少し痩せたかな?』
幹夫の声は優しい。侑子は父の声が好きだった。
「手紙が向こうに届かなくなったの。消えなくなった。向こうからも来ないし。もう、やりとりすることはできなくなったってことだよね」
侑子はなるべく具体的に、手紙が届かなくなったと分かった時の状況を話して聞かせた。つらい感情まで蘇ることを覚悟したが、話しているうちに記憶と一緒に気持ちが整っていくのを感じた。
『なるほど。そうだな。こっちから送れないのと同じように、向こうも送れなくなって困惑しているのかもしれないね』
幹夫は顎に手を当て、何か考え込むように視線を下げた。
『あるいは……あくまで推測でしかないけど』
人差し指を立て、幹夫が画面の向こうから侑子を見つめてくる。
『こちらの屋根裏には何も変化が起きていない。これは確かなんだね。だとすると、可能性の一つとして向こうの環境に何か変化が起きたとも考えられる』
「変化?」
侑子の声が揺れた。
『ユウキくんが手紙を置いていた場所も、確か屋根裏だったんだね?』
「うん」
『その場所に手紙を置いておけなくなるような、何かが起きたってことも考えられるんじゃないかな』
「変化……」
心当たりはあった。
地震に水害。ヒノクニでは災害が多発していた。
「どうしよう、お父さん」
つながりが消えた世界で生きていく決意を固めたばかりだというのに、早くも侑子の心は声と共に震えた。
「もしかしたら、とんでもないことが起こったのかもしれない」
『落ち着いて、侑子。今侑子が考えていることは、すべて想像でしかない』
「想像?」
『そうだ。本当に起こっているかどうか分からないことだ。確かめることができない以上、今は想像の域を出ない』
「確かにそうだけど」
『想像に縛られずに、心は強く持つべきだ。自分自身の生活がある時は特にね』
父は優しい声をしているし、語り口も穏やかだ。しかし娘の表情を見たからといって、話そうと決めた言葉を反故にすることはない。
『侑子には高校生活があるね。バンド活動もある。今は何かと制限されて不自由だろうけど、それでも大切にすべき、侑子自身の生活の軸がある。僕としては、確かめようのない想像に振り回されることなく、今目の前にあるものの中で侑子が取り組みたいことに集中する方が、君のためになると思う』
「うん……」
『はは。説教じみてたかな。すまない』
首を振った侑子は無理に笑おうとしたが、やめておいた。幹夫はそんな娘の表情を見て軽く二回頷いた。
『それにね、侑子』
幹夫は再び人差し指を上げた。
『いつも言っていることだけど、絶対はないんだ。今正しいとされている物理法則が、未来永劫絶対に覆らないなんて誰にも言い切れない。侑子の想像が絶対ではないのと同じくらい、再びヒノクニとのつながりが生まれる可能性だって、『絶対ない』なんて誰にも言い切れない』
侑子の瞳が少しだけ見開かれた。そこに幹夫は若々しい輝きを見つけた。画面越しでもはっきりと分かる光だった。それを見いだせたことに安堵するのは、親としての感情だろう。
その瞳の輝きを弱らせたくなくて、幹夫は今度は学者としてではなく、父親としての言葉を娘に贈りたくなった。
『またつながりが生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。どちらも絶対ではないのなら、侑子が考えたい方へ考えていればいいんだ。言霊ってあるだろう?』
「驚いた」
案の定、侑子は目を丸くしていた。
「お父さんから言霊って言葉を聞くとは思わなかった」
『父さんはロボットじゃなくて人間だからね。感情豊かに生きてる』
「そっか」
『願掛けだってするよ。科学者の頭では、それで現象が変わるわけじゃないと分かっていても、願わずにはいられない時もある』
「ふふ」
おどけた声音に侑子は笑った。
『だからね、人は一筋縄じゃいかない。現象だってそうだよ。だから振り回される。感情にも、現象にも』
「そうだね。……ありがとう、お父さん」
『父さん、そろそろ眠くなってきたよ。侑子はもうすぐ夕飯かな』
「うん。今日はなんとなく食べられそう。お腹減ってきたよ」
『それはよかった』
「また連絡していい?」
『もちろん。いつでもしておいで』
「ありがとう。おやすみなさい」
終話ボタンをクリックすると、父が映っていた画面は味気ないグレーの壁紙へと切り替わった。そこに自分の姿が映り込み、侑子は思いのほか明るい表情をしていることに気づく。
――大丈夫かもしれない
そんな言葉が浮かんだのと同時に、腹の虫が鳴った。
これはいよいよ大丈夫だという、身体からの合図かもしれない。
左腕につけっぱなしのブレスレットをひと撫でして、侑子は紐先の青い鱗に口づけた。




