トコヨノクニ――受容
連絡してみようと取り出したスマートフォンの画面に、ちょうど向こうからのメッセージ通知が表示されていた。
裕貴がタップすると短い一文だけが表示される。
『ごめん、今日行けない』
侑子にしては素っ気ない文だと少しだけ違和感を覚えたものの、裕貴はスマートフォンをポケットに戻した。
「来ないのか。なんだ」
心待ちにしていた分、気が抜けて深いため息が漏れた。
気を取り直すように再びギターを構え、弦を弾く。
午前中の早い時間、人の姿は裕貴以外にない。音の波動が広がっていくように、川面がゆらゆらと光を揺らしていた。
◆◆◆
食べ物が喉を通らなくなる経験など、初めてだった。
ヒノクニに迷い込んだ時も、正彦とちえみの悲しい過去を追体験した時も、それなりに精神的な打撃は受けたはずだった。それでも侑子の身体は律儀に空腹になったものだ。
依子が心配したのは当然だった。日が経つにつれ侑子はいくらか平常心を取り戻していたが、食事をはじめとして何に対しても意欲が湧かなかった。母に申し訳なく感じつつも箸はまったく進まない。
愛佳たち従兄弟三人に打ち明けたのは、裕貴に断りの連絡を入れてから数日後、いよいよ来週から分散制で学校が再開すると決まった頃だった。
侑子の告白を聞いて、愛佳がおそるおそる尋ねた。
「……本当に、届かなくなっちゃったの?」
三人とも、これ以上なんと言葉をかけたらいいのか分からない様子だった。明らかにやつれた侑子が目の前にいるし、依子から彼女の様子を詳しく聞いていたのだろう。
「心配かけて、ごめん」
母も叔父と叔母も非常に心配してくれていた。愛佳たちもだ。兄の朔也も頻繁に顔を出してくれていた。
「ごめんね。けど、どうしたら気持ちを終わりにできるのか全然分からなくて」
侑子の部屋に四人が集まると密と呼ばれる空間になったが、今は誰もそんなことを気にしなかった。
「そんなの当たり前だよ」
愛佳が声を震わせた。涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「どうして愛ちゃんが泣くの」
「ゆうちゃんが可哀想」
「愛佳」
蓮が低い声で窘める。
「だって。だってあんまりだよ。手紙しかなかったのに。ゆうちゃんがユウキちゃんと大好きって伝え合える手段、手紙しかなかったのに……突然それすらなくなっちゃうなんて、悲しすぎるじゃない!」
わんわん泣き始めてしまった愛佳を、ぽかんと見つめるのは遼だった。
「えっ? ゆうちゃんとユウキちゃんが、大好きって……? えっ? もしかして二人、両思い? 彼氏彼女? そういうこと?」
「今そこかよ」
蓮が呆れたように呟く。
「お兄ちゃんのバカ」
「えっ、なんかごめん。でもさ、俺知らなかった……」
「兄貴だけだよ、知らなかったの」
「そーなの……?」
「ぷっ」
侑子が吹き出した。三兄妹は一斉に彼女に注目した。
「ふふっ……ご、ごめ……あはは……っ。三人のこういう掛け合い、見れたの久々だったから」
自然に笑い声を出せたのは何日ぶりだろう。止め方が分からなくて、侑子は腹が痛くなるほど笑った。
「やっぱおかしいよ、ゆうちゃん。こんなことでそんなにツボに入るなんて……」
本気で深刻そうな表情を浮かべる蓮に、さらに笑いが込み上げてくる。
「大丈夫。大丈夫……! あははっ。ちょっと待って、ふふふふ」
どうにも止まらなくなり、侑子は目の前の愛佳をぎゅっと抱きしめた。従姉妹の柔らかい肩に顔を埋める。
それでもひとしきりくつくつと笑うと、ようやく落ち着いてきた。
「はあーぁ。笑った笑った……見て、涙出てきた」
心配そうな三つの顔が侑子を見つめていた。
「ありがとう。……ごめんね」
感情の微調整がまるでうまくいかない。こんな時は、別の感情までちょっとしたことで大きく揺れ動くものなのかもしれない。
「余計に心配させちゃったみたい。でもね、思いっきり笑ったおかげか、ちょっと気が晴れた感じだよ」
「ほんと?」
侑子の言葉と柔らかな笑顔を見て、愛佳の表情はぱっと輝いた。
「うん。今日、来てくれてありがとう。三人は手紙のことを知ってて、信じてくれてたから」
侑子の抱えた絶望を理解できる存在がそばにいてくれたことは、本当にありがたいことだった。一人で抱えるにはあまりにも大きすぎた。
笑顔のままクローゼットに目を向ける。
扉は閉まったままだった。一週間、一度も開けていない。
「まったく考えてなかったわけじゃないの」
緩い笑みは消さないまま、侑子は話し出した。
「もしかしたらいつか、文通もできなくなる可能性は、ゼロじゃないだろうって思ってた」
手紙のやりとりが始まって四年目に入ろうとしていた。
その間、侑子とユウキはそれぞれの世界で、それぞれの日常を生きてきた。その日常の中のほんの一部分を、手紙という手段でかろうじてつなぎ止めてきたに過ぎない。
どんなに恋しくても寂しくても、自分に与えられた日々を精一杯生きるしかない。たとえその結果、少しずつ相手の輪郭が朧気になっていったとしても。
どういう仕組みで、どういう理由で許された交信だったのか謎のままだ。予告なく終わってしまっても誰かに文句を言うわけにはいかない。ただ嘆くことしかできない。
「頭では、覚悟できてたんだと思う。……ただ、身体の方がついてこなかっただけで」
一拍置いて、侑子は続けた。
「でも今日、三人と話せて、声出して笑えたから。……もう、大丈夫」
――言霊
その言葉が頭に浮かび、侑子はゆっくり頷いた。
「受け入れる。ユウキちゃんに会えないこの世界で、ちゃんと大丈夫になるよ」




