トコヨノクニ――断絶
ユウキちゃんへ
お花見、どうだった?
こっちの桜はもう散り始めてる。まだ楽しめるけど、今年は例年通りのお花見をしている人は見かけないな。
みんな散歩のついでに立ち止まって眺めてるだけだね。
当たり前が当たり前じゃなくなっちゃった。
当たり前に学校に行って、当たり前に誰かと会えて。
当たり前に大きな声で歌って、踊って、叫んで。
全部、当たり前じゃなかったんだね。
できなくなった途端に、当たり前のことは何一つ当たり前ではなかったんだって気づくんだよ。
おかしな話だよね。
ユウキちゃんのことや、ヒノクニのことだってそうだった。
なんで忘れていたんだろう。
歌いたいな。
これから河原に行ってくる。
緊急事態宣言が出てから河原を散歩する人が増えて、いつもより人を見かけることも多くなったけど。
川に向かって歌うんだったら、咎める人もいないよね。
ユウキちゃんの歌、歌ってくるよ。
侑子
◆◆◆
いつものように最後に自分の名を記すと、桜の花びらが片隅に描かれた封筒に畳んだ手紙を入れた。
糊付けをして封筒に住所とユウキの名を書く。一円切手を一枚貼ってクローゼットを開けた。
天井の点検口の蓋をずらし、暗がりへ手を伸ばして封筒を置く。——もう何度も繰り返した動作だったので、きっと目を瞑ってもつまずくことなく、点検口を塞いでクローゼットの扉を閉めるところまでできるだろう。
「行ってきます」
声が届くはずはないのだが、なんとなく屋根裏に向かって声をかける。出かける時の侑子の習慣だった。
◆◆◆
「偶然」
「ゆうちゃん」
いつもの場所には先客がいた。侑子はわずかに間を空けて倒木の上に腰掛けた。
「ギターの音が聞こえてたから、もしかしたらと思ったけど」
裕貴が笑った。マスクを外した顔は久しぶりに見た気がする。
「いいよ、つけなくて。少し離れて同じ方向向いてればいいんじゃないかな」
慌ててマスクをつけようとする裕貴の手を制し、侑子は川面へ顔を向けた。
「歌ってたの?」
「いや、今はギターに集中してた」
「そっか」
「やっぱりここいいよな。あまり人も来ないしさ」
「足場悪いもんね」
侑子の言葉通り、この場所は大きな岩が多い。歩きづらいのであえて散歩コースに選ぶ人が少ないのだ。
「ゆうちゃんは歌いに来たんだろ」
「うん」
「どうぞ。思う存分歌って。俺、合わせるよ。何歌うの?」
裕貴の言葉に甘えて侑子はいくつかの曲名を彼に告げた。どれも、ユウキが歌っていた曲だった。
「……本当に、好きだよなぁ」
独り言のように呟くと、裕貴は音を紡ぎ始める。
マスクを外した侑子の口から自由を喜ぶように、伸びやかな歌声が広がっていった。
◆◆◆
歌い終えると、二人はどちらからともなくマスクをつけ直した。
「課題進んでる?」
「まあまあ。やることないし」
「そうだよねえ。ゲンさんとキクちゃんは元気?」
「うーん……ばあちゃんは明らかに元気ないかな。元々家にいる時間の方が少ないくらい、ライブハウスで演奏してるか友達と遊んでる方が多かった人だし。じいちゃんはいつも通り。音楽聴いて過ごしてるよ。ゆうちゃんが来れなくなったって、よく愚痴ってるけどな」
「そっかぁ……」
「二人とも一応高齢者だから。忘れがちだけど」
「……早く終わればいいのにね」
二人は並んで腰を下ろしていた。マスクをつけての会話は声に靄がかかったように聞こえてくる。
「終わるさ、そのうち」
裕貴がきっぱりと言った。
「来月には学校だって始まるよ。ちょっと春休みが伸びてラッキー! くらいに考えればいいんだ」
笑顔の裕貴が侑子にはとても眩しく映った。
「野本くんは前向きだね。私はどうしても暗く考えがちになっちゃってて」
「ゆうちゃんが?」
裕貴が目を丸くする。口元が覆われていても驚いているのが分かった。
「ゆうちゃんっていつも、ポジティブですごいなって思ってたけど」
「そうかな」
「そうだよ。初めて会った時からそうだった」
「……自分のことって、自分じゃよく分からないな」
「元気出しなよ。せっかく俺と会えたんだしさ」
トン、と背中を軽く叩かれて侑子は笑う。
「そうだね。ありがとう」
「明日も同じくらいの時間に来るよ。ゆうちゃんもどう?」
「うん。明日も来る」
「ギター持っておいでよ。俺も歌うからさ、ゆうちゃんが伴奏して」
「オッケー」
立ち上がって歩き出しながら侑子はもう一度裕貴に礼を言った。
「ありがとう、野本くん。明日楽しみにしてるね」
◆◆◆
帰宅してすぐ侑子は屋根裏に続く点検口の蓋を開けた。
ユウキからの返事が届いていなくとも、出かける前に置いた自分の手紙はなくなっているはずだ。それを確認するためだった。
手紙が消えていることを確かめる。それは、向こうの世界とのつながりを確かめることでもあった。
侑子にとっては、自分の心の生存確認のようなものだった。
――え?
だからこそ、そこにある封筒を見た瞬間、侑子の心臓は早鐘を打ち始めた。
――なんで?
あってはいけないものがそこにあった。
見間違いでありますように。
その封筒を手に取り凝視する。
――なんで
数時間前にしたためた手紙が手の中にあった。
本来なら、置いた手紙が消えている方がよほど不可解なはずだった。けれど侑子にとっては、消えていないことの方が異常だった。
どうしても、受け入れられなかった。
「手紙が届かない」
言葉にした途端、それは取り消せない事実になった。
手の中の封筒は、出かける前と少しも変わらない重さで、そこにあった。




