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青い半魚人  作者: 松下真奈
第二章
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ヒノクニ――刺突

「このあたりで間違いありませんね」

「ええ」

「お願いできますか」

 ブンノウの言葉に、シグラは無言で頷いた。

 自分の足が踏みしめる地表を見つめる。目を凝らさなくとも、彼女には見えた。

――厚い。厚いわ。他のどこよりも、この部分を覆う天膜は厚みがある

 厚さだけではない。その場所一帯を覆う天膜は輝いていた。黄金の光が、地面から湧き出ているように見えた。

 ブンノウの目には、おそらく何の変哲もない砂浜にしか見えていないだろう。しかし、シグラの目の前に広がる光景は、さながら極楽や天国を連想させる幻想的なものだった。

――なんて美しいのかしら

 発光する天膜は、今まさに力を発揮しているということを意味する。国民や国土に害をなす何かから、この場所を守っているということだ。

――警告の美。私たちに警告している。この膜を剥がしたら、これまでの地震や水害以上の災厄が起こると

 シグラは両手に手套を嵌めた。

――それでも、やらなければならない

 小型のアタッシュケースの中から、メスを取り出した。シグラの指先ほどの小さな刃先。無機質な輝きは鋭い銀色で、呼吸するように柔らかく動く天膜の輝きとは、ひどく対照的だった。

――完成させなければいけない

 跪いて、一瞬だけ天を仰いだ。

 ブンノウとともに天膜に向き合い続けて、どれだけの歳月が過ぎていっただろう。すっかり歳を取ってしまった。

――もう少しで完成するのだから。あの兵器は、この国に必要なものよ

 ブンノウを正しいと信じることで、自分もここまで進んできた。導き出した答えが正解なのだと、シグラは何度も自分に言い聞かせてきた。

 しかし、なぜだろう。

 メスを構える右手が震えた。ふいに、淡い光に包まれた小さな身体が脳裏をよぎった。

 車から転がり落ちた、あの子供。

――天膜(あれ)が守ったんだ

 かつて自分がそう確信したものへ、今から刃を入れる。

――間違ってない。間違ってないわ

 ブスリ。

 天膜に切れ込みを入れる時、返ってくる反動はないはずだ。

 しかしこの時、確かに手に感じたのは、まるで分厚い肉塊に刃物を突き立てたような感触だった。

 あまりにも生々しいその感覚に、シグラは固まる。

 生きた動物を刺したとしたら、こんな感覚だろうか。

 メスを握っていない方の手は、地表を覆う天膜に触れていた。その掌が、一瞬熱くなった。——まるで、溢れ出る血液に触れたように。

「どうしました。切り取れますか?」

 ブンノウの声に、我に返る。

 相変わらず生暖かさを掌に感じながら、シグラは握りしめたメスを動かした。

 切り取った天膜にはやはり厚みがあったので、賽の目に切り分け、収納容器へと入れた。

「もう少し採取しましょう」

「ええ」

 自分の心を平常へ引き戻すブンノウの声に縋るように、シグラは身を寄せた。

 手は天膜から離したはずなのに、感じた熱がまだそこに残っているような気がした。

 恐る恐る自分の掌を見たシグラは、小さく悲鳴を上げる。

「どうしました?」

「血が」

「血? どこか怪我をしたのですか」

「……?」

 確かに見た気がするのだ。

 真っ赤な鮮血で染まった掌を。

 けれど、シグラが再び視線を落とした先にあったのは、白い手套を嵌めた自分の手だけだった。

「シグラ?」

 まだこちらを見ているブンノウに、シグラは首を振った。

「なんでもないわ。少し、嫌なものを思い出しただけ」

「嫌なもの?」

「夢よ」

 ブンノウの表情が、ほんのわずかに止まった。その変化を、シグラは見逃さなかった。

「あなたも、まだ見る?」

 何の夢とは言わなかった。それでもブンノウには通じたらしい。

「時々」

「そう」

 シグラは自分の掌を見つめた。白い手套には、やはり血など一滴もついていない。

「私は最近、少し変わったの」

「夢が?」

「ええ。前とは違うところがある」

 ブンノウはしばらく黙っていた。

「夢というものは、そういうものでしょう」

「そうかもしれないわね」

 笑顔を作った。けれど、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。

 

 二人が初めてその夢について話したのは、もうずいぶん昔のことだった。

 あの頃は、同じ夢を見ているという事実だけで嬉しかった。

 夢の中で聞いていた声の主が本当に存在していて、その人もまた自分と同じ場所を夢に見ている。それだけで、二人が出会ったことには特別な意味があるのだと思えた。

 けれど最近、夢から目覚めた時に胸に残るものは、あの頃とは少し違っていた。

 シグラはもう一度、白い掌を握りしめた。

「続きをしましょう」

「ええ」

 再びメスを構える。

 今度はもう、血は見えなかった。

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