ヒノクニ――刺突
「このあたりで間違いありませんね」
「ええ」
「お願いできますか」
ブンノウの言葉に、シグラは無言で頷いた。
自分の足が踏みしめる地表を見つめる。目を凝らさなくとも、彼女には見えた。
――厚い。厚いわ。他のどこよりも、この部分を覆う天膜は厚みがある
厚さだけではない。その場所一帯を覆う天膜は輝いていた。黄金の光が、地面から湧き出ているように見えた。
ブンノウの目には、おそらく何の変哲もない砂浜にしか見えていないだろう。しかし、シグラの目の前に広がる光景は、さながら極楽や天国を連想させる幻想的なものだった。
――なんて美しいのかしら
発光する天膜は、今まさに力を発揮しているということを意味する。国民や国土に害をなす何かから、この場所を守っているということだ。
――警告の美。私たちに警告している。この膜を剥がしたら、これまでの地震や水害以上の災厄が起こると
シグラは両手に手套を嵌めた。
――それでも、やらなければならない
小型のアタッシュケースの中から、メスを取り出した。シグラの指先ほどの小さな刃先。無機質な輝きは鋭い銀色で、呼吸するように柔らかく動く天膜の輝きとは、ひどく対照的だった。
――完成させなければいけない
跪いて、一瞬だけ天を仰いだ。
ブンノウとともに天膜に向き合い続けて、どれだけの歳月が過ぎていっただろう。すっかり歳を取ってしまった。
――もう少しで完成するのだから。あの兵器は、この国に必要なものよ
ブンノウを正しいと信じることで、自分もここまで進んできた。導き出した答えが正解なのだと、シグラは何度も自分に言い聞かせてきた。
しかし、なぜだろう。
メスを構える右手が震えた。ふいに、淡い光に包まれた小さな身体が脳裏をよぎった。
車から転がり落ちた、あの子供。
――天膜が守ったんだ
かつて自分がそう確信したものへ、今から刃を入れる。
――間違ってない。間違ってないわ
ブスリ。
天膜に切れ込みを入れる時、返ってくる反動はないはずだ。
しかしこの時、確かに手に感じたのは、まるで分厚い肉塊に刃物を突き立てたような感触だった。
あまりにも生々しいその感覚に、シグラは固まる。
生きた動物を刺したとしたら、こんな感覚だろうか。
メスを握っていない方の手は、地表を覆う天膜に触れていた。その掌が、一瞬熱くなった。——まるで、溢れ出る血液に触れたように。
「どうしました。切り取れますか?」
ブンノウの声に、我に返る。
相変わらず生暖かさを掌に感じながら、シグラは握りしめたメスを動かした。
切り取った天膜にはやはり厚みがあったので、賽の目に切り分け、収納容器へと入れた。
「もう少し採取しましょう」
「ええ」
自分の心を平常へ引き戻すブンノウの声に縋るように、シグラは身を寄せた。
手は天膜から離したはずなのに、感じた熱がまだそこに残っているような気がした。
恐る恐る自分の掌を見たシグラは、小さく悲鳴を上げる。
「どうしました?」
「血が」
「血? どこか怪我をしたのですか」
「……?」
確かに見た気がするのだ。
真っ赤な鮮血で染まった掌を。
けれど、シグラが再び視線を落とした先にあったのは、白い手套を嵌めた自分の手だけだった。
「シグラ?」
まだこちらを見ているブンノウに、シグラは首を振った。
「なんでもないわ。少し、嫌なものを思い出しただけ」
「嫌なもの?」
「夢よ」
ブンノウの表情が、ほんのわずかに止まった。その変化を、シグラは見逃さなかった。
「あなたも、まだ見る?」
何の夢とは言わなかった。それでもブンノウには通じたらしい。
「時々」
「そう」
シグラは自分の掌を見つめた。白い手套には、やはり血など一滴もついていない。
「私は最近、少し変わったの」
「夢が?」
「ええ。前とは違うところがある」
ブンノウはしばらく黙っていた。
「夢というものは、そういうものでしょう」
「そうかもしれないわね」
笑顔を作った。けれど、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。
二人が初めてその夢について話したのは、もうずいぶん昔のことだった。
あの頃は、同じ夢を見ているという事実だけで嬉しかった。
夢の中で聞いていた声の主が本当に存在していて、その人もまた自分と同じ場所を夢に見ている。それだけで、二人が出会ったことには特別な意味があるのだと思えた。
けれど最近、夢から目覚めた時に胸に残るものは、あの頃とは少し違っていた。
シグラはもう一度、白い掌を握りしめた。
「続きをしましょう」
「ええ」
再びメスを構える。
今度はもう、血は見えなかった。




