トコヨノクニ――予感
年が明け、二〇二〇年になった。
「やあねえ。新型肺炎だって」
侑子は引き出しからアルミのスプーンを取り出したところだった。
金曜夜の恒例行事である。母と二人でコンビニアイスを食べながら映画を観るのだ。
映画番組の前のニュースが流れていた。画面に映し出されるのは、中国の武漢市の様子。診療を待つ人々が長い列をなしている。
「日本にも入ってくるのかな」
「さあ……どうだろう。大事にならないといいけど。肺の病気か。思い出すわね。侑子が生まれた頃にも、こんなふうに中国発の肺炎が騒がれたの」
「SARSだっけ?」
「そうそう。日本では大きな流行にならないまま収まったのよね。今回もそうなればいいけど……」
二人が話しているうちにニュースは終わり、CMが流れ始めた。やけに明るい曲に合わせて、売り出し中の若手俳優が商品名を繰り返している。
けれど侑子も依子も、先ほどの映像が妙に頭から離れずにいた。
病院でぐったりと座り込み、陰鬱な表情で順番を待つ人々。何かを訴えるように、激しい口調でまくし立てる人の姿もあった。
画面が切り替わった後も、それらの光景が目の奥に残っている。
何かよくないことが起こる。
そんな予感が、胸の片隅に居座っていた。
侑子は、それを振り払うように口を開く。
「アイス溶けちゃうよ」
ちょうど映画番組の始まりを知らせる音楽が聞こえてきた。
カップアイスの蓋を開けると、中身はすでに柔らかくなっていた。持ち上げると、紙の容器が指の形にへこんだ。
◆◆◆
嫌な予感というのは、どうしてこうも的中するのだろう。
三学期が進むにつれ、新たな感染症の影は少しずつ濃くなり、やがて日常の隅々にまで広がっていった。
日本国内で初めて感染者が確認されると、堰を切ったように新しい報道が押し寄せてきた。テレビもインターネットも、連日その話題で持ちきりだった。
何が本当で、何が間違っているのか分からない。
根拠のない噂に踊らされていると分かっていても、気になって確かめずにはいられなかった。
二月も終わりに近づく頃には、三学期に予定されていた学校行事の多くが、中止や縮小を余儀なくされた。
部活動にも制限がかかり、密閉された室内で声を出す活動は、当面の間見合わせるようにとの通達が下された。軽音楽部も、もちろん例外ではなかった。
買い占めはご遠慮ください。
品薄。
欠品。
そんな貼り紙が、街のあちこちで目につくようになった。
依子や望美たちは「あそこのスーパーにトイレットペーパーがあった!」などと連絡を取り合っている。侑子も学校帰りにドラッグストアを覗くのが、いつしか習慣になっていた。部活のできない放課後には、久しぶりに裁縫道具を広げるようになった。作っているのはマスクだ。店頭で手に入らなくなったため、自分で縫うことにしたのである。
「卒業式の日、三年生だけ登校になるんだって」
「送別会も中止だってさ」
三学期の終わりが近づくにつれ、学校ではそんな話題ばかりが交わされるようになっていた。
部活がないので、侑子も結衣も楽器を担いで登校することがなくなった。身軽なものだ。
「来週のスタジオ予約、どうする?」
「私、しておくよ。ちょうど今日ギタースクールあるし、近くだから直接行ってくる」
昼休み、二人は並んでテラスに出ていた。校庭で男子生徒たちがサッカーをしている姿が見えた。
部活動はできなくなってしまったが、侑子たちは最低でも週に一度、音楽スタジオでバンドの練習を続けていた。金銭的には厳しいものの、仕方がない。これまで無料で利用できていた公営のスタジオや音楽室は、感染症への警戒から使えなくなっていたのだ。
「バイトのシフト、増やそうかなぁ。スタジオ代にもなるし。部活ないとさ、やっぱり時間余るよね」
結衣がため息交じりに呟いた。
予鈴が鳴った。校庭に散らばる生徒たちが、昇降口へ向かって流れ出す。
そのうちの一人がふとテラスを見上げ、侑子と目が合った。裕貴だった。笑顔で手を振ってきたので、侑子も振り返す。
その様子を見ていた結衣が、わざと声をひそめた。
「ねえ、本当に二人、付き合ってないの?」
もう何度も聞かれた質問だった。侑子も、答えることには慣れている。
「ないよ」
「野本の方は、絶対侑子に気があると思うんだけどな」
「……」
教室へ戻りながら、侑子は唇を引き結んだ。
結衣の言うことは、侑子自身も感じているところだった。
自分でそう考えるのはおこがましいし、思い違いならそれで構わない。けれど、たぶん外れてはいない。——裕貴は、自分に気がある。
それを匂わせる言動が増えてきたのは、夏の合宿前後からだ。
ユウキのことをやけに気にしているのも、侑子が彼に抱いている感情を少なからず察しているからなのだろう。ユウキと張り合うような発言も多いし、彼の書いた曲を習得しようとする集中力は凄まじかった。
それでも、裕貴は決して思いを口にしなかった。
「好き」だとか「付き合いたい」と言われたことは、一度もない。
もしかしたら、今度こそ。
そんなふうに身構えたことは何度もあった。けれど、そのたびに裕貴が口にするのは、決まって同じ言葉だった。
『俺と歌って』
裕貴と歌うことは好きだった。どんなに難しいユウキの曲でも、裕貴と一緒なら歌い上げることができる。声を重ねる瞬間の心地よさは、ほかの誰と歌っても味わえないものだった。
けれど、歌で応えることはできても、彼の気持ちに同じ形で応えることはできないだろう。
触れ合えない。
声すら聞こえない。
最近では、写真で姿を見ることさえ稀になっていた。
そんなつながりしか持てない今も、侑子が恋をしているのは、異世界にいるユウキなのだ。
――告白なんて、ずっとされなかったらいい。このままでいい
ずるいだろうか。
自分の気持ちばかり守って、裕貴の気持ちには向き合おうとしない。
それでも、今の関係が心地よかった。
音楽の話をして、一緒に歌って、笑い合う。そんな時間が、これからも変わらず続いてほしい。
けれど、いつまでもこのままでいられるとは限らない。
それは分かっていた。
先の見えない不安が世の中を覆っている今、せめて自分の身近なものだけは、何も変わらずにいてほしかった。
侑子は、そう願わずにはいられなかった。




