ヒノクニ――正当性
王と、限られた禰宜や巫女にしか出入りを許されないその場所には、ヒノクニの神器のうち二つが安置されている。
一つは、鏡。
もう一つは、器。
鏡は真円で、一点の曇りも見当たらない。そこに映るのは左右の反転したこちら側の像だけで、一見すれば、ごく普通の鏡と変わらない。
しかし王がその前に立った時――王は鏡の中に、この国で起きているあらゆる事象を見る。
過去でも未来でもない。
今、この瞬間にこの国で起きている現実を。
かつて異世界へと繋がる扉が開いた時、マヒトは前王である父のように、その気配を察知することができなかった。それどころか鏡を覗き込んでも、そこに映っていたのは自分の顔だけだった。
当時は、それにも明確な理由があった。
まだ、王ではなかったからだ。
前王の血を受け継ぐ紛れもない皇太子であろうとも、鏡はそんなことを考慮しない。
――これは……
父が世を去った後、鏡を見る力はマヒトへ移っているはずだった。
初めて王としてこの鏡の前に立った時のことを、今でも覚えている。
もし、何も見ることができなかったら。
そんな不安を抱えたまま、マヒトは真円の鏡と向き合った。
しかしその直後、不安などあっさりと吹き飛ばすほどの恐怖を味わうことになるとは、思いもしなかった。
――なんて恐ろしい
今、鏡に映っているのは、あの時と同じ自分の顔だった。
青ざめた顔は酷い有様で、目の下には青黒い隈が染みついている。束ねた髪からは、ほつれた髪が力なく垂れていた。
だがマヒトは、そんな自分の顔に重なるようにして、まったく別のものを見ている。
それは他者の魔力を見る時と同じ。
目で捉えるのとは異なる、もう一つの知覚。
――なんてことだ
今すぐ誰かに否定してほしかった。
これは幻覚だ。
疲弊しきった自分が見ている、ただの悪夢なのだと。
だが、そんな願いが叶うはずもない。
心の奥から湧き上がる拒絶の声を押し殺しながら、鏡が突きつけてくる現実を受け入れるしかなかった。
――また、天膜が失われている……!
ヒノクニを覆い尽くし、国土と国民を守護する天膜。
その存在について、マヒトは皇太子となった頃から繰り返し教えられてきた。
目には見えない。
触れることもできない。
そんなものを実在するものとして認識しろと言われても、幼い頃には滑稽にすら思えた。
父や禰宜たちの言葉が真実だったのだと思い知ったのは、父を失い、自らが王となって初めてこの鏡の前に立った時だった。
――減っている……
マヒトは鏡の隣へ視線を移した。
そこには、もう一つの神器――『器』がある。
透明な硝子で形作られた、独特な形状の器。
縁には炎が燃え上がるような複雑な装飾が施されている。異世界では、これによく似たものを『火焔土器』と呼ぶらしい。
器が蓄えているのは、『副産物』と呼ばれるものだった。
異世界からヒノクニへと導かれてきた来訪者たちによって生み出される、特殊な力。
王が器に触れ、自らの神力を注ぐことで、それは天膜へと変わる。
今、マヒトの前にある器には、溶け残った砂糖のようなものが、底の一角にわずかに溜まっているだけだった。
――このままでは、尽きてしまうではないか
国内には、まだ来訪者が一人いるはずだった。
数年前までは、もう一人いた。
しかし、その少女は原因も行き先も分からぬまま姿を消し、未だ見つかっていない。
――たった一人では、間に合わないということか?
少し前から、国内各地で天膜が欠ける現象が続いていた。
原因は分からない。
欠けた場所を修復するたび、器に蓄えられていた副産物は減っていく。
このままでは、いずれ底をつく。
――どうすればいい……どうすれば……
分からないことばかりだった。
なぜ、来訪者の一人は消えてしまったのか。
なぜ、天膜が次々と欠けていくのか。なぜ。
――私が、正当な手順を踏まずに王になったからなのか?
ヒノクニには、三つの神器がある。
鏡。
器。
そして――『鍵』。
三つの神器が揃い、それらの所有によって王たることを示した上で即位する。
それが、古くから続いてきた習わしだった。
しかし今、『鍵』は失われたままだ。
その守役と共に。
それでも前王が崩御した後、王位を空席のままにしておくことはできなかった。
既に災害は起き始めていた。
天膜の欠損も見つかっていた。
国を守るためには、王が必要だった。
だからマヒトは即位した。
神器の一つを欠いたまま。
――私には、正当性が欠けている
その考えは、一度芽生えると容易には消えてくれなかった。
――だから、うまくいかないのだろうか。こんなに不吉なことばかり起きるのか
――私が正当な王ではないから、解決の糸口さえ見いだせないのか……!
マヒトは再び鏡へ視線を戻した。
すると、自分の顔に重なっていた光景が変わった。
今度そこに現れたのは――。
母親の胎内から、たった今産み落とされたばかりの新生児。
まだ血に濡れた、小さな身体だった。




