ヒノクニ――山の民
ヒノクニは、国土の八割近くが森林である。温暖多雨な気候と複雑な地形が入り交じった結果、多種多様な木々が生育している。国民の多くは沿岸部を中心とした都市に集中して暮らしているため、古来から手つかずの自然も多く残っていた。
そんな森林地帯の奥深くに、多くの人々からほとんど存在を知られることなく、古来より暮らす人々がいた。『メムの民』、または『メム人』と呼ばれる人々である。
いつ頃から彼らがこの国に住んでいたのか。国が成立する以前からの土着の民なのか、それすら正確に把握する者はいない。
古くは狩猟採集生活を主としていたメム人たちは、時代の変化とともに生活様式を少しずつ変えていった。時には人里へ降り、ヒノクニ国民と交易を行ったり、出稼ぎに出たりする。中にはメム人としての生活から完全に離れる者も少なくなかったが、再び戻ってくる者もいた。
メム人たちは少人数の集団を形成し、その小集団は全国各地に点在している。しかし、現代においても一か所に定住することはない。一定期間暮らしたあと、生活の跡が残る前に別の場所へ移っていくのが常だった。
彼らが道もない山間部や深い森の中を、どのように移動しているのかは分からない。メム人が自らの居住地からヒノクニの街へ出ることは容易だというのに、ヒノクニの人々が彼らの住処を突き止めることは、ほとんど不可能だった。
◆◆◆
「そろそろ出発しましょう」
聞き慣れた若い声に、ミネコは腰掛けていた切り株からゆっくり立ち上がった。
振り返ると、身体のシルエットからはみ出すほど大きく膨らんだザックを背負った男が、栗の木の下に立っていた。日に焼けた肌に黒い瞳が輝いている。瞳と同じ色の髪は猫っ毛で、フードの下からふわふわとのぞいていた。
「まだ膝は痛みますか?」
「大丈夫。だいぶいいわ」
トレッキングポールを握る手に力を込める。
「山歩きはずいぶん慣れたと思っていたのに。加齢には抗えないわねえ」
苦笑するミネコに、メムの青年は親しげに微笑み返した。
ともに過ごしてきた時間は、すでに年単位になっていた。気心の知れた居心地のよさを感じる中で、ミネコはこの青年に息子の面影を見ることが多かった。息子は彼よりもいくぶん年上だが、一定より下の世代はみな子どもに見えてしまうのだ。
「休憩ばかりでごめんなさいね」
「大丈夫です。もうひと踏ん張りですよ。このペースなら、明日の早い時間にはソウイチロウさんの待っている拠点に到着します」
「いよいよ合流できるのね」
夫の名を聞いて顔を輝かせたミネコに、メムの青年――ヤヒコは申し訳なさそうに眉根を下げた。
「ソウイチロウさんも同行できればよかったですね」
ミネコは頭を振った。首から提げている硬いものを、服の上からぎゅっと握りしめながら。
「いいのよ。分かってる。私たちみたいに山に慣れていない人間が複数で動くのは危険だもの。どうしても足が遅くなってしまう……それに、これを持って目立つわけにはいかないわ」
ヤヒコと山の中を移動し続ける生活に入り、何年になるだろう。メム人以外の人間とは、夫や息子とさえ、しばらく会っていなかった。たまに人里から物資を調達する必要があっても、それはヤヒコの仕事だった。
「もうすぐですよ」
「ええ。頑張る。ヤヒコくん、よろしくね。それから、これまで守ってくれてありがとう。本当にあなたたちには、たくさん力になってもらったわ」
「これは俺たちも無関係ではいられない問題なのですから、メムはあなたへの協力を惜しみません。それに、まだ終わってませんよ」
笑う青年が示す方向へ、ミネコは足を踏み出した。
道らしい道など見当たらない。それでもヤヒコには迷いがない。木々と下草の隙間を縫うように、当然のように進んでいく。
そんなミネコの背後から、軽やかに土を踏む音が近づいてきた。足取りと同じ拍子を取るように、小さな鈴の音がりんりんと鳴っている。
「ヤチヨちゃん」
幼さの残る丸顔に、赤い頬。美しい顔立ちの少女だった。艶やかな長い黒髪には、一輪の野花が挿してある。ヤチヨはしなやかな手にも同じ野花を一輪携え、それをミネコへおもむろに差し出した。
「きれいな野菊ね。ありがとう」
白い花弁の中心に、管状花の鮮やかな黄色が映えていた。顔を近づけると、朝露に濡れた草の匂いがする。
ミネコの笑顔を確認すると、ヤチヨは相好を崩した。彼女の赤い唇から声が放たれることはなかったが、形のよい白い歯がきらりと輝いた。
「行こうか、チヨ」
ヤヒコはいつも、頭の一音を外して妹の名を呼ぶ。頷いたヤチヨは、ミネコの後方を守るように歩を進め始めた。




