《少し過去の話》ヒノクニ――剥離
「剥がれた……」
零れ落ちた言葉が自分のものだと、すぐには気づかなかった。
空中を覆う天膜。その一部、十センチ四方に切れ込みを入れた箇所が、とうとう本体から離れた。
枯れ葉のように、ひらひらと落ちてくる。
シグラは白い手套を嵌めた両手を椀状にして、慎重にそれを受け止めた。
重さは、ほとんど感じない。
オブラートよりも薄いそれは、わずかな吐息だけでも再び宙へ舞い上がってしまいそうだった。シグラは守るように両手を閉じ、その中へ閉じ込める。
「これが……天膜」
声が震えた。
つい先ほどまで、刃を通した手には確かに、生きた肉を切り裂くような感触があった。けれど今、掌にあるものからは何も感じない。
熱も。鼓動も。重ささえも。
「見てください。シグラ」
ブンノウの声に顔を上げた。
彼が指し示していたのは、天膜を切り取った跡だった。
「どうなっていますか」
シグラは目を凝らす。
そこには、ぽっかりと四角い穴が開いていた。周囲がよれることも、しぼむこともない。十センチ四方の形だけが、初めからそこには何もなかったかのように抜け落ちている。
机いっぱいに広げたジグソーパズルから、真ん中の一片だけをそっと抜き取ったようだった。
「穴が開いてる。そのままの形で……」
シグラは息を呑む。
「向こう側が見えるわ」
当たり前の景色だった。
色も変わらない。風も、温度も。何も起きていない。
そのことが、かえって不気味だった。
「採取したものを、こちらへ」
ブンノウに促され、シグラは掌の中の天膜を透明な容器へ落とした。
薄い円形の容器だった。透明な蓋を閉じれば、どの角度からでも中身を観察できる。
「私には、何も入っていないように見えるのですが」
ブンノウが容器を目の高さまで持ち上げた。
「あなたには確かに見えるのでしょうね」
「見えるわ」
シグラは頷き、再び空中に開いた穴へ目を向けた。
ゆっくりと人差し指を伸ばす。指先が、四角い境界を越える。
「……何もない」
気温は変わらない。何かが皮膚に触れることもない。
指を戻し、今度は切断面にそっと触れてみた。
シグラは眉を寄せる。切った時には、あんなにも生々しかったのに、今は違う。
硝子のように硬くもない。紙のように柔らかくもない。押しても歪まないのに、押し返される感触すらない。
そこに確かに存在しているのに、存在していないものに触れているようだった。
「なんて……神秘的なの」
とうとう、やり遂げた。
天膜を剥がし取ることに成功したのだ。
身体の奥から、一気に歓喜がせり上がった。長い時間を費やした。何度失敗したかも分からない。失ったもの、失った人もいた。
ついに自分たちは、この国を覆う神秘の一片を手に入れた。
膝から力が抜け、シグラはその場にへたり込んでいた。
けれど、押し寄せた歓喜が引いていくのと入れ替わるように、別の感情が胸の底から浮かび上がった。
――本当に、良かったの?
顔を上げる。
ブンノウは、透明な容器を見つめていた。その横顔に浮かぶ笑みが、シグラにはひどく歪んで見えたのだった。
――これでいいのよ
そう思った。
――これで、いい
確信しているはずだった。なのに、それ以上考えようとすると、心のどこかが竦んだ。
シグラはもう一度、四角く欠けた天を仰ぐ。
穴の向こうには、何もない。
いつもと同じ空気。いつもと同じ光景。
それなのに。
その小さな穴から、目には見えない何かが流れ込んでくるような気がした。
ほんの十センチ四方。そんな小さな穴から。
やがてそれは黒く濁った水となって、シグラの脳裏へ押し寄せた。
濁流。
足をすくわれる。身体が呑まれる。
ブンノウも、自分も、この国さえも。
どこかへ押し流されていく。
「……っ」
シグラは弾かれたように立ち上がった。
幻は消えている。
目の前には、透明な容器を眺めるブンノウがいるだけだ。アイスブルーの瞳だけが、不思議そうにこちらを見ていた。
「これでいいのよ、ブンノウ」
今度は、声は震えなかった。
ブンノウはわずかに目を細めた。けれど、その言葉について何も訊かなかった。
「集めましょう」
透明な容器を掲げる。
「もっと量が必要です」




