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青い半魚人  作者: 松下真名
第二章
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153/206

《少し過去の話》ヒノクニ――剥離

「剥がれた……」

 零れ落ちた言葉が自分のものだと、すぐには気づかなかった。

 空中を覆う天膜。その一部、十センチ四方に切れ込みを入れた箇所が、とうとう本体から離れた。

 枯れ葉のように、ひらひらと落ちてくる。

 シグラは白い手套を嵌めた両手を椀状にして、慎重にそれを受け止めた。

 重さは、ほとんど感じない。

 オブラートよりも薄いそれは、わずかな吐息だけでも再び宙へ舞い上がってしまいそうだった。シグラは守るように両手を閉じ、その中へ閉じ込める。

「これが……天膜」

 声が震えた。

 つい先ほどまで、刃を通した手には確かに、生きた肉を切り裂くような感触があった。けれど今、掌にあるものからは何も感じない。

 熱も。鼓動も。重ささえも。

「見てください。シグラ」

 ブンノウの声に顔を上げた。

 彼が指し示していたのは、天膜を切り取った跡だった。

「どうなっていますか」

 シグラは目を凝らす。

 そこには、ぽっかりと四角い穴が開いていた。周囲がよれることも、しぼむこともない。十センチ四方の形だけが、初めからそこには何もなかったかのように抜け落ちている。

 机いっぱいに広げたジグソーパズルから、真ん中の一片だけをそっと抜き取ったようだった。

「穴が開いてる。そのままの形で……」

 シグラは息を呑む。

「向こう側が見えるわ」

 当たり前の景色だった。

 色も変わらない。風も、温度も。何も起きていない。

 そのことが、かえって不気味だった。

「採取したものを、こちらへ」

 ブンノウに促され、シグラは掌の中の天膜を透明な容器へ落とした。

 薄い円形の容器だった。透明な蓋を閉じれば、どの角度からでも中身を観察できる。

「私には、何も入っていないように見えるのですが」

 ブンノウが容器を目の高さまで持ち上げた。

「あなたには確かに見えるのでしょうね」

「見えるわ」

 シグラは頷き、再び空中に開いた穴へ目を向けた。

 ゆっくりと人差し指を伸ばす。指先が、四角い境界を越える。

「……何もない」

 気温は変わらない。何かが皮膚に触れることもない。

 指を戻し、今度は切断面にそっと触れてみた。

 シグラは眉を寄せる。切った時には、あんなにも生々しかったのに、今は違う。

 硝子のように硬くもない。紙のように柔らかくもない。押しても歪まないのに、押し返される感触すらない。

 そこに確かに存在しているのに、存在していないものに触れているようだった。

「なんて……神秘的なの」

 とうとう、やり遂げた。

 天膜を剥がし取ることに成功したのだ。

 身体の奥から、一気に歓喜がせり上がった。長い時間を費やした。何度失敗したかも分からない。失ったもの、失った人もいた。

 ついに自分たちは、この国を覆う神秘の一片を手に入れた。

 膝から力が抜け、シグラはその場にへたり込んでいた。

 けれど、押し寄せた歓喜が引いていくのと入れ替わるように、別の感情が胸の底から浮かび上がった。

――本当に、良かったの?

 顔を上げる。

 ブンノウは、透明な容器を見つめていた。その横顔に浮かぶ笑みが、シグラにはひどく歪んで見えたのだった。

――これでいいのよ

 そう思った。

――これで、いい

 確信しているはずだった。なのに、それ以上考えようとすると、心のどこかが竦んだ。

 シグラはもう一度、四角く欠けた天を仰ぐ。

 穴の向こうには、何もない。

 いつもと同じ空気。いつもと同じ光景。

 それなのに。

 その小さな穴から、目には見えない何かが流れ込んでくるような気がした。

 ほんの十センチ四方。そんな小さな穴から。

 やがてそれは黒く濁った水となって、シグラの脳裏へ押し寄せた。

 濁流。

 足をすくわれる。身体が呑まれる。

 ブンノウも、自分も、この国さえも。

 どこかへ押し流されていく。

「……っ」

 シグラは弾かれたように立ち上がった。

 幻は消えている。

 目の前には、透明な容器を眺めるブンノウがいるだけだ。アイスブルーの瞳だけが、不思議そうにこちらを見ていた。

「これでいいのよ、ブンノウ」

 今度は、声は震えなかった。

 ブンノウはわずかに目を細めた。けれど、その言葉について何も訊かなかった。

「集めましょう」

 透明な容器を掲げる。

「もっと量が必要です」

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