ヒノクニ――異変
リリーは畳の上に敷かれた布団に、仰向けに横たわっていた。すぐ隣には、小さな子ども用の布団。その上で目を線のようにして寝息を立てているのは、生まれたばかりの我が子だった。
赤ん坊らしく、小さな両手を万歳するように顔の横へ上げ、それが時折ぴくりと跳ねる。弧を描く柔らかな頬には、ふわりと産毛が生えている。顔を寄せれば、新生児特有の甘く柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。それを嗅ぐと、たまらなく愛おしい気持ちになるのだった。起こしたくない反面、このまま抱き上げて、求肥のような頬に唇を押しつけたくて仕方なくなる。
しかしリリーはそんな衝動を抑え、深く息を吐き出した。瞼を閉じると、めまいを感じた。
出産がこんなにも重い負担を身体にもたらすなんて、想像だにしなかった。永久に続くかと思えた、壮絶な痛みの連続。そこから解放されて一週間が経つというのに、いまだに鈍い痛みとだるさが残ったままだ。食事や授乳のために少し身体を動かすだけで、完徹した朝よりも視界がふらつく。
「よく眠ってるね」
部屋に入ってきたのは、ミツキだった。彼女が持つ漆塗りの丸盆の上には、軽食が載っていた。
「今のうちにゆっくり食べて、リリーさんも昼寝しちゃいなよ」
「ありがとう。ごめんね。連日上げ膳据え膳状態で、なんだか恥ずかしくなってきた。いいなぁ、そんなに身軽に動けて。うらやましくなっちゃう」
冗談めかした言い方をしたが、実際リリーはうらやましかったのだ。軽やかに畳の上を動き回るミツキのことが。
こんな心境になるのも、産後特有のものだという。助産師から教わっていなければ、きっとあまりのつらさに、自分がおかしくなってしまったのだと落ち込んでいただろう。
「なーに言ってるの。そんなの、気にすることじゃないでしょ。みんなお世話するのを、なんだかんだ楽しんでるんだしさ。モモちゃんも可愛いし」
上体を起こすのを、ミツキが手伝ってくれる。白湯を一口飲み込んで、リリーは、はぁ、とため息をついた。
「……お産ナメてた」
リリーのおどけた表情に笑ったミツキだったが、すぐに首を振った。
「仕方ないって。何もかも想定外のことばかりだったもん」
陣痛が始まったと知らせを受け取ってから、モモカが生まれてくるまでのことを振り返る。
何もかも想定外のことばかり。その通りだった。
ヒノクニでは、自宅出産が一般的だ。妊婦が待機する住宅に自治体から助産師が派遣される。助産師とは、特別な医療魔法を会得した有資格者だ。彼女たちが施す魔法処置によって、妊婦は基本的に初期段階の陣痛以上の痛みを感じることなく出産するのだ。
『スイカを鼻から出すような痛みってたとえは、聞いたことありますね』
紡久が語ったトコヨノクニでの出産事情を、ミツキもリリーも、にわかには信じられなかった。
『スイカを鼻から出したら、顔が破裂しちゃうわよ』
男子で、しかも身近に妊婦がいた経験もない紡久が説明できることは少なかったが、それだけでもリリーは震え上がったものだった。
まさか、そんな出産を自分が経験することになるとは、夢にも思わなかった。
「助産師さんの魔力、まだ戻らないのかしら……」
心配そうに呟くリリーに、ミツキはためらいがちに頷いた。
「……そうみたい」
◆◆◆
リリーの陣痛が始まったのは、八月十五日の夜半だった。
以前から予想されていたように、その晩に出産する妊婦は多かった。待機場所としていたジロウの屋敷に助産師が駆けつけた時、すでに彼女は三人の妊婦の出産に携わったあとだった。
『前のお産が済んでから半日近く経ちましたから、魔力も回復してきた頃です。ご安心くださいね』
働き詰めの中堅助産師を心配した面々に、彼女はそう説明して笑っていた。
しかし。
『え……? なぜ……魔力が戻ってない……?』
誰よりも狼狽えていたのは、助産師本人だった。
彼女から立ち上る魔力が弱々しく、ほとんど霞む程度にしか見えないことは、その場の誰もが目の当たりにした紛れもない事実だった。助産師の魔力は、枯渇寸前だった。
すぐに別の助産師が派遣されたが、彼女も同様だった。この助産師もすでに別の出産を終えてきたあとで、魔力はわずかにしか残っていない。
そうこうしている間にも、陣痛はどんどん進んでいく。
リリーは最初こそ場を和ませる冗談を言ったり、雑談したりしていたものの、痛みが増すにつれてそんな余裕は霧散していった。等間隔に『痛い!』という叫びと、『あ、大丈夫かも』という気の抜けた言葉を繰り返していたのが、次第に少しでも痛みから逃れようと絶叫するばかりになった。
『痛い痛い痛い!』
『死んでしまうのではないか?』
焦りのあまり涙目になったエイマンを諭したのは、ノマだ。
『私の祖母世代が若い頃は、お産を軽くする医療魔法が確立していなかったそうですよ。そんな時代でも赤ちゃんは生まれてきたんだから、大丈夫ですよ』
『海外では、こうやって自然に任せて産むのが普通の国もあるんだろう? トコヨノクニでも、そうだっていうじゃないか』
ジロウの言葉に頷いているのは紡久だ。彼はリリーが痛みに泣き叫ぶ声が隣室から聞こえてくるたびに、顔をこわばらせた。
しかし、こんな状況でも専門家たちは冷静だった。助産師は、魔法を使えない状況での分娩訓練も受けている。
二人の助産師が的確に手を尽くす中、痛みを訴える叫びとは違う、何かに耐えるような一段低い声が屋敷の廊下まで響き渡った。
その直後だった。
リリーを心配して集まった人々の耳に、この世の空気に初めて触れた誰かが発する清らかな音――産声が聞こえてきたのだった。




