トコヨノクニ――合宿
軽音楽部の合宿は、二泊三日で行われる。
バスに揺られること二時間半。スタジオを備えた小さな合宿所は、総勢三十名の部員と引率教員で貸切になっていた。
侑子は同じ一年生の女子三人と同室だった。荷物を運び込むと、ほとんど休む間もなく練習が始まる。中学時代の同好会とは違い、時間にはかなり厳しい。部員数が多いぶん、限られたスタジオをきっちり割り振って使うのだ。
「私たち第二スタジオだ。着いてすぐ使えるの、ラッキーだったね」
到着後に配られた振り分け表を確認しながら、結衣が「よしっ」と拳を握った。
同じバンドのベース担当で、侑子とはクラスメートでもある。演奏歴は五年になるという。
「急ごう。時間もったいない」
「じゃあ、あとでね」
同室の二人に手を振り、楽器を抱えて部屋を出た。
侑子と結衣のほかに、裕貴とドラム担当の男子一年生を加えた四人が、今回のバンドメンバーだった。
「早いね」
侑子と結衣が機材を準備していると、男子二人が顧問と一緒に入ってきた。
「うん、備品も問題なさそうだな。終わったらきちんと元に戻すように。楽しんで」
「はーい」
合宿最終日には、各バンドが一学期から練習してきた三曲を披露する。そのうち一曲は、ユウキが書いたものだった。
「準備できた? サウンドチェックやっちゃおう」
侑子はメンバーを見渡し、片手を上げた。自然と仕切るのは、ボーカルの侑子になっていた。
ギター。ベース。ドラム。
一つずつ音が加わっていく。やがて音の振動が空気を震わせ、全身を包んだ。
音楽漬けの三日間が始まった。
◆◆◆
「あっという間だったね」
最初の練習を終え、四人は次の場所へ移動していた。
「もっと弾きたかったなあ」
名残惜しそうな結衣に、侑子は振り分け表を確認しながら笑う。
「五十分だけだもんね。次は部屋練。そのあとお昼」
「部屋練か。クーラー効いてるかな。あちい」
ドラマーは一人だけ汗だくだった。部活Tシャツの色まで変わっている。
「一回着替えてこいよ。まだ時間あるだろ」
裕貴に言われ、彼は宿泊部屋へ戻っていった。
「私も飲み物取ってこようかな」
結衣も給湯室へ続く廊下へ消える。
二人きりになると、裕貴がため息をついた。
「ほんと難しいな。勇輝さんの曲」
「え? 全然間違えてなかったよね」
侑子は目を丸くした。先ほどの裕貴のギターは、ほとんど完璧だった。夏休みに入ってからの練習量を考えれば、それも当然なのかもしれない。
「ギターじゃないよ。歌の方」
「歌?」
「本当に、あの高低差を一人で歌ってたの?」
裕貴は少し考えてから続けた。
「音源、やっぱりない?」
「……ないの。ごめん。あれば私も聴きたいんだけど」
何度か繰り返した問答だった。それ以上、裕貴は訊かなかった。
「そっか。まあいいや。昼飯のあと、ちょっと合わせてよ。一緒に歌おう」
「いいよ」
二人には、演奏会で披露する三曲とは別に練習している曲があった。それもユウキが書いた曲だった。ヒノクニにいた頃、侑子がユウキと何度も一緒に歌った曲。
ユウキの歌は、高低差が激しい。二人で分けて歌えば簡単になるかと思えば、そうでもなかった。
一人の声からもう一人へ渡す瞬間。二つの声を重ねる瞬間。離れた旋律が、もう一度一つになる瞬間。
どこも、少しずれるだけで妙に気持ちが悪い。
その難しさに初めて気づいたのは、中学時代の顧問だった佐藤とツインボーカルで歌った時だった。ユウキと歌っていた頃には、考えたことすらなかった。
――ユウキちゃんが、合わせるのが上手だっただけなのかな
それとも。
――私が次にどんな声を出すのか、ユウキちゃんには分かってたみたいだった
そんなはずはない。そう思うのに、二人で歌っていた時の記憶を辿ると、どうしてもそんな感覚が残る。
息を吸う瞬間も。声を伸ばす長さも。重なる場所も。
合わせようとした記憶がない。ただ歌えば、重なった。
――ユウキちゃん、だったから。なのかな
そうだったらいい。
侑子は誰にも聞こえないよう、胸の内で呟いた。
◆◆◆
「その曲、何?」
昼食を終えたあと、侑子と裕貴は先ほどまで使っていた練習部屋へ戻っていた。残った休憩時間を使って、もう少しだけ歌うことにしたのだ。
二人分の声しかなかった部屋に、突然別の声が混じった。
振り返ると、大柄な三年生が入口に立っていた。
「三木先輩」
「おつかれさまです」
三木は軽音楽部の部長だ。
筋肉質な身体にジャージ姿。一見すると運動部のエースのようだが、歌えば意外なほど高く澄んだ声を出す。ピアノ歴も長く、弾き語りまでこなす。人柄もよく、部員たちから頼りにされていた。
「個性的な曲だね。誰の曲? 聞いたことないな」
「私の知り合いが作った曲なんです」
「へえ。ああ、この人」
侑子がスマートフォンに表示した譜面には、ユウキの名が記されていた。
「確か最終日にやる曲にも、この人のがあったよね」
「よく覚えてますね」
「そりゃ部長だから」
三木はわざとらしく胸を張り、すぐに笑った。
「っていうのは冗談。みんな有名な曲とか、最近人気のバンドの曲を選びたがるだろ。見たことない名前だったから覚えてたんだ。そっか、五十嵐さんの知り合いだったのか」
三木は二人を交互に見た。
「さっきの曲もやるの? ツインボーカル?」
「いや、これは個人練習みたいな感じです」
答えたのは裕貴だった。
「もっと歌が上手くなりたくて」
「野本くん、十分上手いと思うけどな。それに残念だな。ちょっと聴いただけだけど、すごくいい曲だった。みんなにも聴かせればいいのに」
そこで三木は何か思いついたらしく、にっと笑った。
「そうだ。俺がピアノ弾くから、二人でこれ歌ってよ」
「えっ?」
「演奏会のシークレットプログラム」
「いいんですか、そんな勝手して」
「いいんだよ。部長権限。一応、先生には確認するけど」
この部長はアイデアマンなんだよ。
入部したばかりの頃、誰かにそう教えられたのを思い出した。
「五十嵐さん、パート別の譜面ある? 持ってきてる?」
侑子は三木の勢いに押されるまま、楽譜作成アプリからユウキの曲を保存したフォルダを開いた。
「え、ちょっと待って、ゆうちゃん。やる気?」
慌てる裕貴に、三木が笑う。
「部長がやると言ったらやるんだよ。ほら、歌って。ほかの奴らにはなるべく知られないように練習しよう。時間ないぞ」
◆◆◆
ステージに立つ侑子は、別人みたいだ。
裕貴はいつもそう思う。
普段の侑子は、特別おとなしいわけではない。けれど我が強いわけでも、積極的に人の輪の中心へ入っていくわけでもない。どこか一歩引いたところから周囲を眺めている。見えない壁を、自分でも気づかないまま作っているように見えることさえあった。
なのに、マイクを前にすると変わる。
音に乗って、歌声が軽やかに広がっていく。無邪気な笑顔。観客の反応など忘れてしまったかのように、自分から生まれる音だけを追いかける眼差し。
音楽の中にいる時だけ、侑子は何からも身を守っていないように見えた。
「ありがとうございましたっ!」
マイクから口を離した声まで、歓声の上を跳ねていく。
侑子は両手を大きく上げ、それから観客へきれいに頭を下げた。部員たちと顧問から拍手が起こった。
「おつかれさま」
次の二年生バンドと交代する。侑子は次のボーカルの女子とハイタッチを交わしながら、ステージを降りていった。
「大成功だったね」
「気持ちよかったー」
結衣と笑い合った侑子の視線が、そのまま裕貴を捉えた。もともと侑子を見ていた裕貴と目が合う。
鼓動がひときわ大きく鳴った。
「野本くんのギター、よかったよ」
「ありがと」
必要以上に舞い上がらないよう、どうにか声を平らに保つ。最近、侑子に笑いかけられるだけで顔が熱くなる。気づかれていないだろうか。
そんな心配をよそに、侑子は一歩近づいてきた。
「最後の組が終わる前に、ステージ裏に行ってればいいんだよね?」
秘密を共有する者同士の、小さな囁き声だった。
裕貴は頷き、すぐに視線を逸らす。
見ていたい。でも、見ていられない。
このところずっと、その二つの感情に振り回されていた。
◆◆◆
「びっくりしたぁ」
帰りのバス。祭りのあとのような興奮が残った車内は、まだ騒がしい。
隣の結衣が、侑子の腕をつついた。
「いつの間に練習してたの? 三木先輩まで」
演奏会の最後。何の前触れもなく始まった三木のピアノに続いて、侑子と裕貴が歌った。最初はぽかんとしていた部員たちも、すぐに音の中へ引き込まれていった。
「初日に急にやろうって決まったの。休憩時間とか、ご飯のあととか、空いてる時間に練習して……さすがに合わせる時間が足りなかったけど」
侑子にも裕貴にも、もちろん三木にも、満足できる完成度ではなかった。三木の伴奏にはかなりのアドリブが入ったし、侑子と裕貴も、思い描いたようには声を重ねられなかった。
「でも、すごいよかったよ。私は好きだな、ああいう荒削りなの」
「ありがとう」
お世辞ではないことが分かって、素直に嬉しかった。
――懐かしかったな
観客を前に、誰かと並んでユウキの歌を歌う。それだけで、ヒノクニでユウキとステージに立った時の感覚が鮮やかに蘇った。
自分の声に、もう一つの声が重なる。大好きだった声。包まれるような安心感と、身体ごと音に溶けてしまいそうな高揚。
――懐かしかった……
けれど、違った。
裕貴の歌が悪かったわけではない。むしろ上手かった。
だからこそ分かった。
上手いとか、下手とか。合わせるのが得意だとか、そういうことではなかった。
侑子がもう一度聴きたかったのは、あの声だった。
――ユウキちゃんの声、聴きたいな。あぁ、どうしよ。聴きたいなぁ
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
けれど今日は、このまま楽しい気分で終わりたかった。侑子は窓の外へ流れていく景色を一度だけ眺め、それから隣の結衣へ顔を向けた。
「ねえ、花火大会の日なんだけどさ」
次の楽しい予定について話したかった。
高校一年生の夏休みは、まだ始まったばかりなのだ。




