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青い半魚人  作者: 松下真名
第二章
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147/206

トコヨノクニ――合宿

 軽音楽部の合宿は、二泊三日で行われる。

 バスに揺られること二時間半。スタジオを備えた小さな合宿所は、総勢三十名の部員と引率教員で貸切になっていた。

 侑子は同じ一年生の女子三人と同室だった。荷物を運び込むと、ほとんど休む間もなく練習が始まる。中学時代の同好会とは違い、時間にはかなり厳しい。部員数が多いぶん、限られたスタジオをきっちり割り振って使うのだ。

「私たち第二スタジオだ。着いてすぐ使えるの、ラッキーだったね」

 到着後に配られた振り分け表を確認しながら、結衣(ゆい)が「よしっ」と拳を握った。

 同じバンドのベース担当で、侑子とはクラスメートでもある。演奏歴は五年になるという。

「急ごう。時間もったいない」

「じゃあ、あとでね」

 同室の二人に手を振り、楽器を抱えて部屋を出た。

 侑子と結衣のほかに、裕貴とドラム担当の男子一年生を加えた四人が、今回のバンドメンバーだった。

「早いね」

 侑子と結衣が機材を準備していると、男子二人が顧問と一緒に入ってきた。

「うん、備品も問題なさそうだな。終わったらきちんと元に戻すように。楽しんで」

「はーい」

 合宿最終日には、各バンドが一学期から練習してきた三曲を披露する。そのうち一曲は、ユウキが書いたものだった。

「準備できた? サウンドチェックやっちゃおう」

 侑子はメンバーを見渡し、片手を上げた。自然と仕切るのは、ボーカルの侑子になっていた。

 ギター。ベース。ドラム。

 一つずつ音が加わっていく。やがて音の振動が空気を震わせ、全身を包んだ。

 音楽漬けの三日間が始まった。



◆◆◆



「あっという間だったね」

 最初の練習を終え、四人は次の場所へ移動していた。

「もっと弾きたかったなあ」

 名残惜しそうな結衣に、侑子は振り分け表を確認しながら笑う。

「五十分だけだもんね。次は部屋練。そのあとお昼」

「部屋練か。クーラー効いてるかな。あちい」

 ドラマーは一人だけ汗だくだった。部活Tシャツの色まで変わっている。

「一回着替えてこいよ。まだ時間あるだろ」

 裕貴に言われ、彼は宿泊部屋へ戻っていった。

「私も飲み物取ってこようかな」

 結衣も給湯室へ続く廊下へ消える。

 二人きりになると、裕貴がため息をついた。

「ほんと難しいな。勇輝さんの曲」

「え? 全然間違えてなかったよね」

 侑子は目を丸くした。先ほどの裕貴のギターは、ほとんど完璧だった。夏休みに入ってからの練習量を考えれば、それも当然なのかもしれない。

「ギターじゃないよ。歌の方」

「歌?」

「本当に、あの高低差を一人で歌ってたの?」

 裕貴は少し考えてから続けた。

「音源、やっぱりない?」

「……ないの。ごめん。あれば私も聴きたいんだけど」

 何度か繰り返した問答だった。それ以上、裕貴は訊かなかった。

「そっか。まあいいや。昼飯のあと、ちょっと合わせてよ。一緒に歌おう」

「いいよ」

 二人には、演奏会で披露する三曲とは別に練習している曲があった。それもユウキが書いた曲だった。ヒノクニにいた頃、侑子がユウキと何度も一緒に歌った曲。

 ユウキの歌は、高低差が激しい。二人で分けて歌えば簡単になるかと思えば、そうでもなかった。

 一人の声からもう一人へ渡す瞬間。二つの声を重ねる瞬間。離れた旋律が、もう一度一つになる瞬間。

 どこも、少しずれるだけで妙に気持ちが悪い。

 その難しさに初めて気づいたのは、中学時代の顧問だった佐藤とツインボーカルで歌った時だった。ユウキと歌っていた頃には、考えたことすらなかった。

――ユウキちゃんが、合わせるのが上手だっただけなのかな

 それとも。

――私が次にどんな声を出すのか、ユウキちゃんには分かってたみたいだった

 そんなはずはない。そう思うのに、二人で歌っていた時の記憶を辿ると、どうしてもそんな感覚が残る。

 息を吸う瞬間も。声を伸ばす長さも。重なる場所も。

 合わせようとした記憶がない。ただ歌えば、重なった。

――ユウキちゃん、だったから。なのかな

 そうだったらいい。

 侑子は誰にも聞こえないよう、胸の内で呟いた。



◆◆◆



「その曲、何?」

 昼食を終えたあと、侑子と裕貴は先ほどまで使っていた練習部屋へ戻っていた。残った休憩時間を使って、もう少しだけ歌うことにしたのだ。

 二人分の声しかなかった部屋に、突然別の声が混じった。

 振り返ると、大柄な三年生が入口に立っていた。

「三木(みき)先輩」

「おつかれさまです」

 三木は軽音楽部の部長だ。

 筋肉質な身体にジャージ姿。一見すると運動部のエースのようだが、歌えば意外なほど高く澄んだ声を出す。ピアノ歴も長く、弾き語りまでこなす。人柄もよく、部員たちから頼りにされていた。

「個性的な曲だね。誰の曲? 聞いたことないな」

「私の知り合いが作った曲なんです」

「へえ。ああ、この人」

 侑子がスマートフォンに表示した譜面には、ユウキの名が記されていた。

「確か最終日にやる曲にも、この人のがあったよね」

「よく覚えてますね」

「そりゃ部長だから」

 三木はわざとらしく胸を張り、すぐに笑った。

「っていうのは冗談。みんな有名な曲とか、最近人気のバンドの曲を選びたがるだろ。見たことない名前だったから覚えてたんだ。そっか、五十嵐さんの知り合いだったのか」

 三木は二人を交互に見た。

「さっきの曲もやるの? ツインボーカル?」

「いや、これは個人練習みたいな感じです」

 答えたのは裕貴だった。

「もっと歌が上手くなりたくて」

「野本くん、十分上手いと思うけどな。それに残念だな。ちょっと聴いただけだけど、すごくいい曲だった。みんなにも聴かせればいいのに」

 そこで三木は何か思いついたらしく、にっと笑った。

「そうだ。俺がピアノ弾くから、二人でこれ歌ってよ」

「えっ?」

「演奏会のシークレットプログラム」

「いいんですか、そんな勝手して」

「いいんだよ。部長権限。一応、先生には確認するけど」

 この部長はアイデアマンなんだよ。

 入部したばかりの頃、誰かにそう教えられたのを思い出した。

「五十嵐さん、パート別の譜面ある? 持ってきてる?」

 侑子は三木の勢いに押されるまま、楽譜作成アプリからユウキの曲を保存したフォルダを開いた。

「え、ちょっと待って、ゆうちゃん。やる気?」

 慌てる裕貴に、三木が笑う。

「部長がやると言ったらやるんだよ。ほら、歌って。ほかの奴らにはなるべく知られないように練習しよう。時間ないぞ」



◆◆◆



 ステージに立つ侑子は、別人みたいだ。

 裕貴はいつもそう思う。

 普段の侑子は、特別おとなしいわけではない。けれど我が強いわけでも、積極的に人の輪の中心へ入っていくわけでもない。どこか一歩引いたところから周囲を眺めている。見えない壁を、自分でも気づかないまま作っているように見えることさえあった。

 なのに、マイクを前にすると変わる。

 音に乗って、歌声が軽やかに広がっていく。無邪気な笑顔。観客の反応など忘れてしまったかのように、自分から生まれる音だけを追いかける眼差し。

 音楽の中にいる時だけ、侑子は何からも身を守っていないように見えた。

「ありがとうございましたっ!」

 マイクから口を離した声まで、歓声の上を跳ねていく。

 侑子は両手を大きく上げ、それから観客へきれいに頭を下げた。部員たちと顧問から拍手が起こった。

「おつかれさま」

 次の二年生バンドと交代する。侑子は次のボーカルの女子とハイタッチを交わしながら、ステージを降りていった。

「大成功だったね」

「気持ちよかったー」

 結衣と笑い合った侑子の視線が、そのまま裕貴を捉えた。もともと侑子を見ていた裕貴と目が合う。

 鼓動がひときわ大きく鳴った。

「野本くんのギター、よかったよ」

「ありがと」

 必要以上に舞い上がらないよう、どうにか声を平らに保つ。最近、侑子に笑いかけられるだけで顔が熱くなる。気づかれていないだろうか。

 そんな心配をよそに、侑子は一歩近づいてきた。

「最後の組が終わる前に、ステージ裏に行ってればいいんだよね?」

 秘密を共有する者同士の、小さな囁き声だった。

 裕貴は頷き、すぐに視線を逸らす。

 見ていたい。でも、見ていられない。

 このところずっと、その二つの感情に振り回されていた。



◆◆◆



「びっくりしたぁ」

 帰りのバス。祭りのあとのような興奮が残った車内は、まだ騒がしい。

 隣の結衣が、侑子の腕をつついた。

「いつの間に練習してたの? 三木先輩まで」

 演奏会の最後。何の前触れもなく始まった三木のピアノに続いて、侑子と裕貴が歌った。最初はぽかんとしていた部員たちも、すぐに音の中へ引き込まれていった。

「初日に急にやろうって決まったの。休憩時間とか、ご飯のあととか、空いてる時間に練習して……さすがに合わせる時間が足りなかったけど」

 侑子にも裕貴にも、もちろん三木にも、満足できる完成度ではなかった。三木の伴奏にはかなりのアドリブが入ったし、侑子と裕貴も、思い描いたようには声を重ねられなかった。

「でも、すごいよかったよ。私は好きだな、ああいう荒削りなの」

「ありがとう」

 お世辞ではないことが分かって、素直に嬉しかった。

――懐かしかったな

 観客を前に、誰かと並んでユウキの歌を歌う。それだけで、ヒノクニでユウキとステージに立った時の感覚が鮮やかに蘇った。

 自分の声に、もう一つの声が重なる。大好きだった声。包まれるような安心感と、身体ごと音に溶けてしまいそうな高揚。

――懐かしかった……

 けれど、違った。

 裕貴の歌が悪かったわけではない。むしろ上手かった。

 だからこそ分かった。

 上手いとか、下手とか。合わせるのが得意だとか、そういうことではなかった。

 侑子がもう一度聴きたかったのは、あの声だった。

――ユウキちゃんの声、聴きたいな。あぁ、どうしよ。聴きたいなぁ

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

 けれど今日は、このまま楽しい気分で終わりたかった。侑子は窓の外へ流れていく景色を一度だけ眺め、それから隣の結衣へ顔を向けた。

「ねえ、花火大会の日なんだけどさ」

 次の楽しい予定について話したかった。

 高校一年生の夏休みは、まだ始まったばかりなのだ。

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