ヒノクニ――欠けた神器
――まずい
御簾に下がる紫紺の房飾りが、ゆらゆらと揺れていた。
すでに身体に感じる揺れは止まっているはずなのに、祭りで客神が腰蓑を揺らして舞うような房飾りの動きを見つめていると、いまだに平衡感覚がおかしいような気分になる。
――まずい、まずい……!
今のは立っていられないほどの揺れではなかった。少し前には、そんな恐ろしい揺れも経験したばかりだ。それでもマヒトは、思わずその場にしゃがみ込んだ。
昨夜からずっと雨が降り続いていた。ただの雨ではない。
マヒトは、このところ続く地震に加えて、さらなる災害に結びつく異変がこの国で起こり始めていることを予感していた。この大雨もそうだ。この場所から見える南庭は、すっかり大きな池のようになっている。もともと池として整えられていた場所はすでに溢れ、周囲まで水に沈んでいた。
――どうしたらいい? よりによってこんな時に。お上……父上が……いや、こんな時だからなのか……?
一人青ざめる皇太子の前に、膝をついた人物がいた。
この場所には似つかわしくない軽装の男は、髪から水滴を滴らせている。抑えきれない荒い息遣いから、ここまで走ってきたことがうかがえた。
「マヒト様。お急ぎください。お父上――お上が」
「タカオミ。どうしたらいいのだ! 私は……」
濡れて額にへばりつく花色の髪の下、菫色の瞳がまっすぐにマヒトをとらえている。
こんなに険しい表情を浮かべたこの男を、マヒトは見たことがなかった。気圧されたように、思わずまくし立てそうになった言葉を飲み込む。
父の有能な近習であるタカオミは、少し前からマヒトのもとにも頻繁に姿を見せるようになっていた。それが何を意味するのか、マヒトも理解していたはずだった。しかし、いざその時が訪れようとしているのだと知ると、どうにも受け入れがたい。
「神器は一つ欠けたままだというのに。こんな状態で――」
「やるしかありません」
マヒトの言葉を遮ったタカオミの声は、震えないよう必死に抑えられているようだった。彼にしては、やけに低い。
「進むしかないのです。止まることも、下がることもなりません。あなたが進まなければ、確実にこの国の歩みは止まる」
雨音が強くなった。遠くで雷鳴が響く。
外を一瞥したマヒトは、次に目の前の菫色の瞳に稲光が走るのを見た。
「参りましょう」
マヒトは頷き、立ち上がった。
その場所を離れる直前、先を進み始めたタカオミが、先ほどまで自分が膝をついていた床を振り返った。
そこには、小さな丸い水たまりができていた。




