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青い半魚人  作者: 松下真名
第二章
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143/206

トコヨノクニ――好きな声

 レコードに針が落ちる瞬間を見るのが、侑子は好きだ。

 ゆっくりと回転する、艶を帯びた黒い円盤。間近で眺めると、音を封じ込めた溝の一つひとつがはっきりと見える。

 レコードの溝は、音の轍(わだち)だと侑子は考えていた。誰が発明したものなのかは知らなかったが、その人を讃えたくなる。

 やがてスピーカーから音が流れ出した。粘り気を感じさせる歌声が、部屋いっぱいに響き渡る。

「トム・ペティ、好きなの?」

 ライナーノーツに目を走らせていた侑子に、部屋へ入ってきた裕貴が声をかけた。

 彼が両手に持つマグカップからは湯気が立ち上っている。肌寒く感じるほど冷房の効いたこの部屋では、ちょうどいいかもしれない。

「来た時には必ず聴いているね。やっぱり侑子ちゃんとは気が合うようだ」

 そう笑ったのは、裕貴の祖父の玄一だった。長椅子から立ち上がると、侑子がたった今ライナーノーツを取り出したジャケットを手に取る。黒い革ジャンを身につけた男が、不敵な笑みを浮かべて写っていた。

 侑子にとって玄一の音楽部屋は、すっかり馴染みの場所となっていた。レコードやCDのコレクションが所狭しと並ぶこの部屋を、中学時代のクリスマスパーティーで初めて訪れて以来、少なくとも月に数回は遊びに来ている。

 初めて触れた頃にはA面B面の存在すら知らなかったレコードの扱いも、今ではすっかりお手の物だ。

「声が好きですね」

「そうなのか。曲が気に入ってるんだと思ってた」

 裕貴からカップを受け取った侑子は、「もちろん曲も好きだよ」と付け足してから、少し考えた。

「でも、やっぱり声が好きだからかな。多分私、声からハマるんだと思う」

「なるほど」

 玄一は再び長椅子に腰を下ろした。

「確かに侑子ちゃんが二度三度リクエストしてくるミュージシャンは、みんな声や歌い方に強い個性があるね」

 傍らに無造作に置かれた紙袋を覗き込み、玄一は中身を確かめた。

「そんなわけで、今回は歌声が印象的なシンガーを選んでみた。以前貸したことのあるものも混ざってると思うけど」

 手渡された袋の中身はすべてCDで、もちろん玄一のコレクションだった。

「いつもありがとうございます」

 侑子は一枚ずつ名前を確認しながら、「あ」と呟いて二枚のアルバムを取り出した。

「これは前に貸してもらったあと、自分でも買ったんです」

「フィオナ・アップル」

「はい」

 なぜこのミュージシャンに惹かれたのか、本当の理由を侑子は告げなかった。

 どこか儚げな印象の美しい女性だったが、その外見とは裏腹に、どすの利いた深い低音が特徴的な歌声をしている。初めて玄一から借りたCDを再生した時、侑子はすぐにリリーを思い出した。懐かしい歌声だった。

「私はこんなふうに歌えないから、とても憧れます」

「そりゃあ、声は天から授かった、その人の唯一無二のものだから」

 ははは、と玄一は愉快そうに笑い、侑子から二枚のCDを受け取った。代わりに別のアルバムを袋へ入れてくれる。

「俺はゆうちゃんの歌い方、好きだよ」

 祖父と侑子の会話を聞いていた裕貴が言った。侑子のマグカップがほとんど空になっているのを確認すると、テーブルの上に投げ出されていたスマートフォンを手に取る。

「歌いに行かない?」

 プレーヤーの針は、まだ円盤の中ほどの溝をなぞっていた。しかし玄一は「行っておいで」と侑子に手を振った。

「片付けはじーちゃんがやっといてやるから」

「ありがとう」

「ごちそうさまでした」

 貸出袋代わりの紙袋とギターケースを抱えると、侑子は裕貴を追いかけるように玄関を後にした。



◆◆◆



「暑いなぁ」

 外へ一歩出ると、真夏の日差しが容赦なく二人の身体を照りつけた。

「今日も図書館行く予定だった?」

 少しだけ眉根を下げた裕貴が、うかがうように侑子を振り返った。侑子は首を振る。

「特に何も考えてなかったけど」

「よかった」

 裕貴は侑子のギターケースを軽く引っ張った。

「持つよ。カラオケ行こう。今日は河原じゃ暑すぎて無理だろ」

「カラオケなら、誰か誘ってみる?」

「いや、二人で行こう」

 裕貴はぐんぐん歩いていくが、歩幅は侑子に合わせてくれているようだった。隣を歩いていると、出会ったばかりの頃よりも、ずいぶん背が高くなったように感じる。

「ゆうちゃんさ、俺の歌どう思う?」

 部活仲間でよく利用するカラオケ店が見えてきた。そこへまっすぐ進みながら、裕貴が唐突に訊いた。

「すごく上手だと思うよ」

 侑子は考える間もなく答えた。何の疑問も持たなかったし、お世辞でもない。

 裕貴はギターがやりたくて軽音同好会に入ったそうだが、高校の軽音楽部に入ってからは歌うことも増えていた。周囲からも上手いと評価されているし、侑子ももちろん同意だった。

「声は?」

 カウンター前に何組か並んでいたので、二人は店先で足を止めた。

「俺の声はどう? ゆうちゃんは声からハマるんでしょ」

 見下ろしてくる裕貴の目が、いつになく真剣だった。

「俺の声は、ゆうちゃんがハマれる声?」

「お次のお客様、どうぞー!」

 侑子が裕貴の歌声を思い起こそうとした時、カウンターの向こうから二人を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。

 答えは保留となった。



◆◆◆



 カラオケで歌う時、侑子も裕貴もマイクは使わない。カラオケ独特の伴奏を極力小さくして、自分の声に集中する。河原や部室、スタジオで歌うのとはまるで違う。狭い個室では、閉塞感から抜け出そうと必死になるような感覚があって、侑子はあまり好きではなかった。

 小学生の頃の苦い思い出が蘇るからだろうか。とっくに克服したはずなのに、やはり記憶は侮れない。

 一通り歌いたい曲を歌い終えると、それ以上新しい曲を入れる気にはならなかった。侑子はただ、裕貴の歌声に耳を傾けていた。

 先ほどの質問の答えを考える。

 裕貴の歌声は好きだった。地声が低めだから、歌声にも男性の低音特有の力強さがある。

――ちょっとだけ、ユウキちゃんの声に似てる時があるんだよな

 ユウキの声を最後に聞いたのは、もう三年ほど前になる。正確に覚えているのか不安になるほど時間が経っているのに、裕貴が歌う時、たまにその低音の中にユウキに近い響きを感じることがあった。

――歌い方は全然違うし、喋り声も似てないけど

 時折見つけるその音に、侑子はもっと聴いていたいと思わずにはいられなかった。しかし、裕貴の歌声すべてがユウキと同じであるはずもない。やはり別の人の、別の声なのだと思い知って終わるだけだった。

「飲み物取ってくるね」

 裕貴が歌い終わったのを見計らって、侑子はグラスを手に立ち上がった。ドアに手をかけたところで、反対側の腕を裕貴に掴まれた。

「どうしたの?」

 再び席に座らされた侑子の問いに、裕貴は質問で返した。

「ゆうちゃんの一番好きな声は?」

 どういう意味かと訊き返そうとした侑子に、裕貴が畳み掛けた。

「手塚勇輝さんって、どんな声なの」

「え?」

 ここでその名前が出るとは思わず、侑子の声はひっくり返った。

「その人のことが好きなの?」

「野本くん?」

「ちょっと待って」と裕貴の前で両手を広げた侑子だったが、その表情を見て、裕貴はわずかに顔を歪ませた。答えを聞かなくても、返事はそこにすべて書かれていた。

 侑子は顎に手を添え、考え込むような表情を浮かべた。彼女が口を開くまで、裕貴は何も言わなかった。

「ユウキちゃん――手塚勇輝さんの声。あの声は……とても不思議な声」

 裕貴の気迫に少し焦ったものの、侑子は言葉を紡ぐうち、次第に落ち着きを取り戻していった。あの声を思い出す。

「小さな女の子が笑う声。しゃがれたおじいさんが昔を懐かしむ声。お母さんが家族を呼ぶ声。地の底から響くような低い声。包み込む風みたいな声。何もかも託したくなるような、女神様みたいな声」

 言葉にしていくほど、記憶の中のユウキの声が生き生きと蘇ってくる。まるで今、耳元で囁かれたかのように、その吐息の温度まで感じられる気がした。その不思議な感覚に、侑子は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。

――忘れてしまうのが怖かったのに、こんなに近くに聞こえる

 言葉の力を感じた。言霊とは、表現したものを具現化する力も持つのだろうか。まるで身体の中でもう一人の彼が歌っているかのように、ユウキの声が頭の中に溢れ出してくる。

「腹話術師か何かなの……?」

 裕貴は困惑していた。侑子はふざけているようには見えない。むしろ一つひとつ、的確な言葉を選んでいるようにすら思えた。

 侑子は裕貴へ視線を戻した。裕貴はわずかに身じろぐ。侑子はいつも、まっすぐに見つめてくる。他愛のない話をする時も、ふざけている時も。

――だからこっちも、目が離せなくなるんだ

 気づけば、いつだって目で追っていた。記憶が曖昧な期間があるというのに、その割に弱々しい顔はしない。内気な性格なのかと思えば、ギターを構えて歌う時には、誰よりも前へ前へと音を飛ばす。

――好きになるなって言う方が無理だ

 本当は口にしたかったその言葉を、裕貴は飲み込んだ。

「私の一番好きな声は、確かにユウキちゃん」

 結局どんな声をしているのか、そこはあやふやなままだったが、裕貴が最も確かめたかったことはあっさりと明らかになった。胸が痛みに跳ねる。一方で、晴れやかに微笑む侑子を前にして、どうしようもなく身体に熱が上がってくるのを、裕貴は自覚していた。



◆◆◆



 誰もマイクを取らず、歌うこともなくなった個室には、ラジオが小さな音で流れていた。侑子と裕貴は並んで座りながら、短い言葉で問答を繰り返している。

「どこに住んでる人なの?」

「すごく遠くなのは確か」

「歳は?」

「私より五つ上だから、二十二歳」

「どこで知り合った?」

「困ってたところを、助けてくれたの」

「職業は? 大学生?」

「ライブハウスで働いてる」

「どこで会ってるの?」

「会ってない」

 そこで一度会話は途切れ、沈黙が訪れた。しかし侑子は質問攻めにされたにもかかわらず、不愉快そうな素振りも見せない。むしろどこか嬉しそうに笑った。

「会ってない?」

 どういうことだろう。裕貴が不可解そうな顔をしたのを見て、侑子は少しだけ説明した。

「会えなくなった。多分これからも、もう会えないんだと思う」

「それはどういう……」

 さらに詳しく訊こうとした裕貴は、途中で言葉を飲み込んだ。ここで侑子が初めて、苦しげに顔を歪ませたからだ。

「でも、手紙でやり取りはしてるの。だから作った曲を譜面で教えてくれる」

 侑子が口ずさんだのは、裕貴もよく知っている曲だった。同好会で、部活で、これまで何度も演奏してきた。

 その一曲だけではない。ユウキが作った曲は、これまで何度も練習している。どれも魅力的で、自然と惹きつけられる曲だった。譜面の片隅に書き込まれた『手塚勇輝』という名前を、裕貴は何度も目にしてきた。

「すごいよな。どれもいい曲だ」

「うん」

「一緒に歌ったことはあった?」

 裕貴の問いに、侑子は頷いた。

「よく一緒に歌ったよ」

「俺も歌いたい。もっと歌えるようになるから」

 裕貴が身体ごとこちらを向いたので、侑子も向かい合った。真剣な瞳を受け止めるように、侑子はじっと続きの言葉を待つ。

 ラジオから最新の流行歌が流れてきた。軽やかで、耳に残りやすい旋律だった。

「俺とも一緒に歌ってよ。どんなふうに勇輝さんと歌ったのか、教えて」

 懇願するような響きだった。

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