《過去の話》ヒノクニ――幸運
その事件が起きた日、シグラとブンノウは研究所を不在にしていた。
多くの命が失われ、惨劇が繰り広げられた、その同じ時刻。
朽ちかけた山小屋の中で、シグラは甘い余韻に身を委ねていた。乱れた呼吸を整えながら、縋るように男の白い首へ腕を回す。大きなため息にも似た吐息が顔にかかった。
「服を着てください。行きましょう」
先ほどまで荒い呼吸を交わしていたはずの人物は、もうすっかりいつもの口調に戻っている。
シグラは身体に残る甘い疲労感を惜しみながら、ゆっくりと上体を起こした。
本当は、このまま肌を触れ合わせて、二人で微睡みの中へ落ちていきたかった。
けれど、その願いが叶えられたことは、これまで一度もない。
「もう試さなくていいの?」
ブラウスのボタンを留めながら、シグラは部屋の隅に置かれたボストンバッグへ目を向けた。
中には今日の実験に使った機材が入っている。この場所に来てからすでに一度試していたが、それは失敗に終わっていた。
「場所を移します。もう研究所には戻れない」
「え?」
ブンノウの言葉の意味が分からず、シグラはボタンを留める手を止めた。
「作り貯めておいた、来訪者たちの魔力を封じた魔石を運び出しておいて正解でした。そして何より、あなたが失われなくて幸運だった」
そこで一度、言葉を切る。
「今までの研究の積み重ねを、すべて無に帰すところでした」
こちらを見ているはずなのに、その瞳には自分がまったく映っていない。
シグラがそのことに気づいたのと同時に、ブンノウは再び口を開いた。
「カルミオは死にました。他の者も。来訪者たちも全員。研究所はもうありません」
開け放たれた窓から吹き込んだ風が、シグラの髪を揺らした。
冷たい風が、いまだ露わなままの脚を撫でていく。
寒さに震えたのか。
それとも、目の前の男が無表情のまま告げた言葉に震えたのか。
シグラ自身にも、分からなかった。




