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9.初めての八点

三日後、基将は再び天牌閣の広間にいた。


 初めてこの場所に連れてこられた時とは、見える景色が違っていた。


 朱塗りの柱。壁に掛けられた牌譜。卓を囲む将士たち。飛び交う発声。牌の音。


 前はすべてが異質で、圧力を持って迫ってきた。


 今も異質であることに変わりはない。だが、その中に少しだけ意味が見える。


「緊張しておるか」


 隣に立つ玄庵が言った。


「してる」


「正直でよい」


「嘘をついても仕方ない」


 基将は卓を見た。


 今日は正式な勝負ではない。玄庵が用意した稽古卓だ。相手は天牌閣の下級将士三人。実力は高くないが、当然、この国の麻将には慣れている。


 玄庵いわく、今の基将が実戦感覚を掴むにはちょうどいい相手らしい。


「勝とうとするな」


 玄庵が言った。


「卓に座る前から難しいことを言うな」


「勝とうとすると、おぬしは昔の癖で打つ。今日は、八点を作って和了ることだけを考えよ」


「順位は?」


「見るな」


「点差は?」


「見るな」


「それは麻雀じゃないだろ」


「今のおぬしにとっては、これが麻将だ」


 基将は苦笑した。


 だが、玄庵の言いたいことは分かる。


 今の自分が順位や点差まで考え始めれば、必ず日本麻雀の感覚が顔を出す。押し引き、逆転条件、局収支。それらは大事だが、まだ早い。


 まずは和了る。


 八点以上を作って、正式に和了る。


 それが今日の目標だった。


「分かった」


 基将は卓についた。


 対面には、丸顔の若い男。上家には痩せた女将士。下家には小柄な少年のような将士が座った。三人とも基将に興味津々という顔をしている。


「この人が、老師が拾ってきた異国の将士?」


 小柄な将士が言った。


「拾われた覚えはない」


「でも、広間でぼろぼろに負けたんでしょ?」


「事実だから否定しづらいな」


 基将がそう返すと、丸顔の男が笑った。


「老師が直々に見るなんて珍しいから、どんな人かと思ったよ」


 痩せた女将士は静かに牌を混ぜながら言った。


「油断はしない方がいい。老師が見込んだなら、何かある」


「今は何もないさ」


 基将は牌を積みながら答えた。


「だから勉強中だ」


 その言葉に、三人が少しだけ意外そうな顔をした。


 おそらく、もっと虚勢を張ると思われていたのだろう。


 だが、今さら格好をつけても仕方がない。


 自分はこの国の麻将では初心者だ。


 認めた上で、勝ちにいく。


 東一局。


 配牌を開いた瞬間、基将は静かに息を吸った。


 一三萬、四六筒、七八索、白白、發、中、九索、二筒、五萬。


(花竜が見える……が、まだ遠い)


 一二三萬、四五六筒、七八九索。


 萬子は二萬が必要。筒子は五筒が必要。索子は七八九が見える。白が対子。白を刻子にできれば加点になるが、花竜だけでも八点には届く。


(目標は一つに絞りすぎるな。花竜、白の箭刻、場合によっては三色三歩高。入り方を見て決める)


 基将は第一打に二筒を切った。


 手を進める。


 上家の女将士は萬子を集めているように見える。下家は字牌を残し、丸顔の男は筒子が厚い。


 《魔将の眼》を薄く使う。


 強く発動させると情報が多すぎて思考が乱れる。玄庵に言われた通り、序盤は「方向を見る」だけに留める。


 上家からは混一色の気配。


 下家からは碰碰和。


 対面は花竜か、三色三歩高か。


(対面と役がかぶる可能性があるな)


 基将は中を処理し、形を固定しすぎないように手を進めた。


 五巡目。


 二萬を引いた。


 これで一二三萬が見えた。花竜の一段目が形になる。だが、下家の碰碰和気配を見ると、字牌や端牌の扱いには注意がいる。


(發は通るか?)


 日本麻雀なら河を見る。ここでも河を見る。ただし、現物だから安全という発想は捨てる。


 下家は字牌をほとんど切っていない。發が対子なら鳴かれる。対面の手もまだ読みにくい。今の發は、自分にとって重なれば箭刻だが、相手にとっても同じ価値がある。


 基将は少し考え、先に浮いた五萬を切った。


「遅いね」


 小柄な将士が笑った。


「考えてるんだよ」


「考えすぎると、手が固まるよ」


「固まるほど知ってるなら苦労しない」


 軽口を返しながら、基将は相手の捨て牌を追った。


 八巡目。


 五筒を引いた。


(来た)


 四五六筒。


 これで一二三萬、四五六筒、七八九索の花竜が見えた。白はまだ対子だが、花竜だけで八点に届く。


 手牌は整った。


 一二三萬、四五六筒、七八九索、白白、發、余剰牌。


 あとは和了牌を待つだけ。


 基将は内心で小さく拳を握った。


 だが、その瞬間に玄庵の声を思い出す。


 勝ちを急ぐな。


 八点を作った後こそ、相手を見る。


 上家の混一色はかなり進んでいる。萬子が危険だ。下家の碰碰和は字牌待ちの気配。対面は筒子を欲しがっている。


 自分の待ちは、三色にまたがる。悪くない。


 しかし、切る牌を間違えれば刺さる。


 基将は余剰牌の一つを手に取った。


 六萬。


 上家の混一色にかなり危ない。


(これは駄目だ)


 日本麻雀なら、テンパイを維持するために押したかもしれない。だが今は練習だ。八点を作って和了ることが目的であり、無意味な放銃をすることではない。


 基将は待ちを一度崩し、安全度の高そうな字牌を切った。


「降りた?」


 丸顔の男が尋ねた。


「いや」


 基将は静かに答えた。


「組み直した」


 その言葉の通り、次巡に白を引いた。


 白が暗刻になり、手牌が再び整う。


 待ちは変わったが、花竜と白の刻子は残っている。


(焦るな。焦れば、昨日までの俺に戻る)


 さらに二巡。


 上家が萬子を鳴いた。


「チー」


 混一色の気配が濃くなる。


 下家も白を警戒し始めたのか、字牌を絞っている。だが、基将の白はすでに暗刻。問題ない。


 対面が一索を切った。


 その瞬間、《魔将の眼》が小さく揺れた。


(対面の花竜が消えた)


 相手の構想が変わる。


 三色三歩高へ寄った。ならば、こちらの索子待ちは少しだけ通りやすい。


 次巡。


 基将は牌山に手を伸ばした。


 指先が牌に触れる。


 引き寄せ、手牌に加える。


 九索。


 完成だった。


 基将は一瞬だけ目を閉じた。


 今度は、分かっている。


 役も、点も、和了条件も。


「フー」


 静かに牌を倒す。


「花竜、箭刻……それと、不求人」


 広間の空気がわずかに変わった。


 対面の丸顔の男が目を丸くする。


「おお、ちゃんと八点超えてる」


「ちゃんとって何だ」


 基将は苦笑した。


 下家の小柄な将士が身を乗り出す。


「花竜に白の刻子、それに門前で自摸。分かりやすいけど、きれいだね」


 上家の女将士は基将の河を見ていた。


「途中で六萬を止めたのは?」


「あんたの混一色が怖かった」


 女将士の眉がわずかに上がる。


「見えてたの?」


「少しだけな」


 後ろで見ていた玄庵が、何も言わずに頷いた。


 基将は点数を受け取った。


 大きな和了ではない。


 試合を決定づけるような一撃でもない。


 だが、基将にとっては、この世界で初めて自分の理解で掴んだ和了だった。


(これが、八点の壁を越えるということか)


 十四点。


 決して大きな和了ではない。


 日本で何度も役満を和了ってきた自分が、今はこの小さな和了に胸を熱くしている。


 不思議なものだ。


 だが、悪くない。


 東二局。


 基将は少しだけ肩の力が抜けた。


 もちろん、まだ分からないことだらけだ。次の局ではあっさり失敗するかもしれない。実際、その後の東二局では下家の碰碰和に対応できず、点を失った。


 東三局では、混一色だけでは八点に届かないことを一瞬忘れ、和了宣言しかけて玄庵の咳払いに救われた。


 東四局では、全不靠の気配を見落とし、危うく危険牌を切るところだった。


 それでも、基将は前日とは違っていた。


 失敗の意味が分かる。


 なぜ間違えたのかが分かる。


 次に何を覚えればいいのかが分かる。


 それは、闇雲に沈んでいた時とはまったく違う敗北だった。


 南場に入る頃、丸顔の男が言った。


「異国の人、覚えるの早いね」


「元が強いんじゃない?」


 小柄な将士がそう言うと、上家の女将士が首を横に振った。


「強いというより、負け慣れている」


「褒めてるのか、それ」


 基将が尋ねると、女将士は真顔で答えた。


「かなり」


 基将は少し笑った。


 負け慣れている。


 確かにそうかもしれない。


 勝ってきた数だけ、負けてもきた。負けを覚え、負けを分析し、負けを次の勝ちへ変えてきた。


 異世界でも、それは変わらない。


 半日ほどの稽古卓が終わった時、基将の順位は三着だった。


 最下位ではない。


 だが、勝ってもいない。


「どうだ」


 玄庵が尋ねた。


「悔しいな」


「三着でか」


「当然だろ」


「ならばよい」


 玄庵は穏やかに言った。


「悔しさの形が戻ってきた。昨日のおぬしは、何に悔しがればいいのかも分かっておらんかった」


 基将は得点表を見た。


 和了は一回。放銃は一回。見落としは数えきれない。点数計算もまだ遅い。役の複合も怪しい。


 だが、初めて八点を作れた。


 その事実だけは、確かな足場だった。


「老師」


 上家の女将士が口を開いた。


「この人、明日の見習い試験に出すんですか」


「そのつもりだ」


 基将は顔を上げた。


「試験?」


 玄庵は平然と頷いた。


「天牌閣に身を置くなら、見習い将士としての認定が要る。おぬしは今、素性も身分もない異国人だ。いつまでも客人扱いはできん」


「聞いてないぞ」


「今言った」


「そういうところあるよな、あんた」


 玄庵は涼しい顔で茶をすすった。


「心配するな。勝てとは言わん」


「じゃあ何をすればいい」


「八点以上で、正式に一度和了れ」


 基将は目を細めた。


「今日と同じか」


「相手は今日より強い。見物人もいる。失敗すれば、天牌閣に置く理由がなくなる」


「十分きついじゃねえか」


「だが、不可能ではない」


 玄庵は基将を見た。


「今日、おぬしは初めてこの国の八点を掴んだ。明日は、それを人前で示せ」


 基将は得点表を畳んだ。


 胸の奥に、静かな熱があった。


「分かった」


 彼は答えた。


「やってやるよ。見習いだろうが何だろうが、まずはそこからだ」


 天牌閣の広間に、次の卓の牌音が響いた。


 基将はその音を聞きながら、明日の試験を思った。


 最強位としてではない。


 異世界の見習い将士として。


 彼の最初の試験が、始まろうとしていた。

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