6.老将士の教え
天牌閣の奥へ進むと、喧騒は少しずつ遠ざかっていった。
表の広間では、いくつもの卓を囲んで将士たちが声を上げている。牌のぶつかる乾いた音、和了を告げる声、勝者の笑い声、敗者の舌打ち。それらが厚い木の扉を一枚隔てるだけで、まるで別世界の響きに変わっていく。
老人に案内された部屋は、小さな茶室だった。
窓の外には細い竹が植えられ、風に揺れている。壁には古びた牌譜が掛けられていた。墨で書かれた文字は基将には読めない部分も多かったが、ところどころに牌姿らしき図が描かれている。
「座れ」
老人はそう言うと、低い卓の前に腰を下ろした。
基将も向かいに座る。
卓の上には、麻雀卓ではなく茶器が置かれていた。老人は慣れた手つきで湯を注ぎ、薄く香る茶を基将の前へ差し出した。
「飲め。手が冷えておる」
「……そんなふうに見えたか?」
「牌を扱う指は震えておらん。だが、心が冷えている」
基将は返す言葉を失った。
この老人は、ただの見物人ではない。広間の者たちの反応を見ても、天牌閣の中で相当な地位にいる人物だろう。だが、それ以上に、卓に向かう者を見る目が鋭い。
「あんたは?」
「名を玄庵という。ここ天牌閣で若い将士どもに教えておる」
「先生か」
「そんな立派なものではない。負け方を忘れた者に負け方を思い出させ、勝ち方を急ぐ者に待つことを教えるだけだ」
玄庵は静かに茶をすすった。
「おぬしは、どこから来た」
基将は一瞬迷った。
日本から来た、と言って通じるのか。死んで女神に会い、異世界へ落とされた。そんな話を正直にすれば、頭のおかしい男だと思われるだけかもしれない。
「遠い国だ」
「名は?」
「日本」
「ニホン……聞かぬ名だな」
「だろうな」
基将は苦笑した。
玄庵は深く追及しなかった。ただ、基将の目を見ていた。
「そのニホンにも、麻将はあるのか」
「ある。俺はそこで、ずっと打ってきた」
「どれほど」
「四十年だ」
玄庵の眉がわずかに動いた。
「若く見えるが」
「こっちに来て、身体がどうなってるのかは俺にも分からん」
基将は自分の手を見る。
元の世界で五十歳だったはずの身体は、ここでは妙に軽い。関節の重さも、肩のこわばりも少ない。鏡を見ていないので正確には分からないが、おそらくもっと若い姿になっているのだろう。
「ふむ。まあよい。卓で嘘をつく者は多いが、牌を触る手は嘘をつかん。おぬしの手は長く打ってきた者の手だ」
「そう見えるか」
「ああ。だから余計に危うい」
玄庵の声が少しだけ低くなった。
「危うい?」
「おぬしは自分の知る麻将を、この国の麻将に重ねて見ている。牌の形が似ているから、同じものだと思ってしまう。だが、似ているものほど恐ろしい」
基将は、先ほどの3筒を思い出した。
現物だから安全。
そう信じて切った牌で、絶張和に刺さった。
「……身に染みたよ」
「ならばよい」
玄庵は卓の端に置いてあった小箱を開けた。中には牌が入っている。使い込まれた牌だが、磨かれており、表面は鈍く光っていた。
玄庵はその中から一筒を取り出し、卓に置く。
「おぬしの国では、南四局で終わるのだったな」
「基本は東南戦だ。東場と南場で終わる」
「こちらの正式な勝負は一荘戦。東、南、西、北まで打つ。もちろん場によって短い勝負もあるが、身分を証明する場や公的な試験では一荘が基本だ」
「さっき聞いて、肝が冷えた」
「冷えただけで済んでよかったな。知らぬまま打ち続ければ、心まで折れていた」
基将は黙った。
折れかけていた。
認めたくはないが、あのまま北場まで続いていれば、ただ点を失うだけだっただろう。自分の誇りを守るために打ち続け、何も得ないまま沈んでいたに違いない。
「まず、一つ覚えよ」
玄庵は一筒の横に、二筒、三筒を並べた。
「この国の麻将において、和了には八点以上が必要だ」
「八点……」
「役の点の合計が八点に満たなければ、和了れん。どれほど形が整っていてもな」
「つまり、日本でいう役なしみたいなものか」
「役なし?」
「俺の国でも、形だけでは和了れない。何らかの役が必要だ。ただ、点数の考え方は全然違う」
「ふむ。では似ておるところもあるわけだ」
玄庵は頷く。
「だが、この八点縛りがあるため、ただ早いだけの手では勝てぬ。何の点を組み合わせるかを最初から考えねばならん」
基将は眉を寄せた。
「だから、さっきの連中は見慣れない役を狙っていたのか」
「そうだ。花竜、一色三歩高、七星不靠、全不靠、絶張和。おぬしが知らぬ役にも、それぞれ意味があり、点がある」
「ドラもリーチもないから、手役そのもので点を作るしかない」
「その理解は早い」
玄庵の口元が少しだけ緩んだ。
「次に、点のやり取りだ。誰かが和了れば、和了者は全員から基本点を受け取る。放銃者はさらに多く支払う。自摸なら全員が重く支払う」
「だから、放銃していなくても削られる」
「そうだ。逃げるだけでは沈む。だが、無謀に攻めればもっと沈む」
「嫌なルールだな」
「勝負とは大抵そういうものだ」
玄庵はさらりと言った。
基将は思わず笑った。
「それはそうだ」
少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
知らないことは多い。だが、説明されれば理解できる。理解できれば、考えられる。考えられれば、戦える。
それだけで、暗闇に小さな灯りがついたようだった。
「それと、もう一つ。おぬしがしきりに言っていたフリテンというものは、この国にはない」
「やっぱりか」
「自分が捨てた牌であろうと、相手が捨てた牌であろうと、条件を満たせば和了れる。だから現物という概念で安全を測ることはできん」
基将は深く息を吐いた。
「防御がまるで違うな」
「違う。だが、防御がないわけではない。役の構成、必要な門、欠けた色、鳴きの形、河の偏り。そこから危険を読む」
「相手が何を完成させようとしているかを読む……」
「おぬしは、それができるはずだ」
玄庵は基将を見据えた。
「広間で見ていた。知らぬ役に振り回されながらも、おぬしは河を見ていた。相手の手出しを見ていた。鳴きの後の切り順を見ていた。普通の素人ではない」
「そりゃ、そこだけはな」
基将は自嘲気味に笑った。
「だが、読めても意味が分からなければ使えない」
「ならば、意味を覚えよ」
玄庵は当然のように言った。
その簡単な言葉が、胸に刺さる。
覚えればいい。
ついさっき自分でも思ったことだ。だが、他人の口から言われると、より重かった。
「あんたは、俺に教えてくれるのか」
「そのつもりで連れてきた」
「なぜだ?」
「面白いからだ」
玄庵は迷いなく答えた。
「面白い?」
「四十年打ってきた者が、まるで初学者のように沈む。普通ならそこで腐る。だが、おぬしの目はまだ死んでおらんかった」
「死にかけてはいたけどな」
「死にかけなら、助ければよい」
基将は茶を口に運んだ。
温かい。
先ほどまで冷えていた身体の芯に、ゆっくりと熱が戻っていく。
「ただし、勘違いするな」
玄庵は言った。
「わしはおぬしを勝たせるために教えるのではない」
「じゃあ何のためだ」
「この国の麻将を知るためだ。勝つか負けるかは、その先にある」
基将はその言葉を噛み締めた。
勝ちたい。
当然だ。卓に座る以上、勝ちたいに決まっている。
だが今の自分は、勝つ以前の場所にいる。ルールを知らず、役を知らず、点数を知らない。勝利だけを見ていても、足元の道が見えなければ進めない。
「分かった」
基将は頷いた。
「教えてくれ。この国の麻将を」
玄庵は満足げに目を細めた。
「よかろう。では、まずおぬしの負けを並べ直す」
「負けを?」
「ああ。勝ちを学ぶより、負けを学ぶ方が早い」
玄庵は小箱から牌を取り出し、先ほど広間で起きた局面を再現し始めた。
基将が安全だと思って切った3筒。
初老の男が倒した手。
絶張和。
「ここからだ」
玄庵の指が、3筒の上で止まる。
「おぬしはなぜ、この牌を安全だと思った」
「全員の現物だった。俺の国では、それだけでかなり安全になる」
「この国では?」
「安全とは限らない」
「では、この牌の本当の危険はどこにあった」
基将は牌姿を見つめた。
萬子の一二三。筒子の二二二。残りの形。河に切られた数牌。鳴きの順番。
分からない。
だが、分かりたいと思った。
それは久しぶりの感覚だった。
日本で最強位と呼ばれるようになってから、知らないことに出会う機会は少なくなっていた。未知の戦術はあっても、根本から分からないということはほとんどなかった。
今、目の前にあるのは、まったく新しい扉だった。
「……教えてくれ」
基将は言った。
「この3筒が、なぜ危険だったのか」
玄庵は静かに頷いた。
「よい目だ」
老人の指が、牌の上を滑る。
「では始めよう。おぬしの二度目の麻雀人生をな」
さて、そろそろ、異国の麻将を覚えますね




