5.終わらない南四局
基将の頭が真っ白になる。
絶張和。
聞いたこともない役名。聞いたこともない発声。見たこともない形で、自分の安全牌だと思っていた3筒が和了牌になった。
(現物だぞ……? いや、そもそもフリテンじゃないのか?)
基将は倒された手牌を凝視した。
萬子の一二三。筒子の二二二。そして、残された形。日本麻雀の感覚で見れば、どう考えてもおかしい。自分の知っている安全の概念が、足元から崩れていくようだった。
初老の男は淡々と点数を数え、筆を走らせた。
「絶張和、一色三歩高、無字、缺一門……ふむ。これで十分だな」
「ちょっと待て……」
基将は思わず声を上げた。
「今のは、俺の捨て牌にあった牌だろう? そっちの河にも、同じ待ちに関係する牌が——」
「だから何だ?」
初老の男は不思議そうに眉を上げた。
「だからって……フリテンだろうが」
「フリテン?」
若い女将士が首を傾げた。筋骨隆々の武人も、何を言っているのか分からないという顔で基将を見る。
「また異国の言葉か?」
「いや、異国も何も……」
基将は言葉に詰まった。
この国にはリーチがない。ドラもない。そして、フリテンもない。
(待て。そうなると、防御の考え方が根本から変わるぞ)
現物だから安全。自分の河にある牌を他家はロンできない。そうした日本麻雀で染みついた常識が、ここではまるで役に立たない。
いや、役に立たないどころか、命取りになる。
「これで南四局も終わりだな」
基将は深く息を吐いた。
終わった。
あまりにも惨めな敗北だった。点数はさらに沈み、逆転どころか勝負に参加できた実感すらない。だが、終わったのならまだいい。ここからはルールを聞き、反省し、次に備えればいい。
そう思った、その時だった。
「では、西一局だ」
初老の男が当然のように山を崩し始めた。
「……は?」
基将は顔を上げた。
「今、何て言った?」
「西一局だ。どうした、もう耳までおかしくなったか?」
「待て待て待て。南四局が終わったんだろう?」
「そうだな」
「なら終局じゃないのか?」
その言葉に、三人の対戦相手は一斉に基将を見た。
ほんのわずかな沈黙。
次の瞬間、若い女将士が呆れたようにため息をついた。
「本当に何も知らずに座ったのか、お前」
筋骨隆々の武人が低く笑う。
「南で終わりとは、ずいぶん短気な国だな」
初老の男は筆を置き、基将に向き直った。
「この国の正式な一戦は一荘戦だ。東、南、西、北まで打つ。南で終わるのは半荘か、訓練用の短い勝負くらいだ」
「東南西北……全部やるのか」
「当然だ」
基将は思わず卓上の牌を見下ろした。
(まだ半分……いや、まだ半分も終わっていないのか?)
自分の知る日本麻雀なら、南四局は終着点だった。そこで勝負が決まり、順位が確定し、勝者と敗者が分かれる。
だが、この世界の麻将では違う。
南四局は終わりではない。
まだ西場があり、北場がある。
つまり、この知らないルールの中で、基将はまだ打ち続けなければならないのだ。
(冗談じゃない……)
冷たい汗が背筋を伝う。
わからない役。わからない点数。わからない安全牌。わからない終局条件。
自分が座っているのは、麻雀卓であって麻雀卓ではない。似ているからこそ、余計に危険だった。知っているつもりで打つたびに、知らない穴へ落ちる。
「山を積め」
初老の男の声が静かに響く。
基将は黙って牌を集めた。
指先に伝わる牌の感触だけは、元の世界と変わらない。硬く、冷たく、そしてわずかに重い。何万回、何十万回と触れてきた感触だ。
それなのに、今はひどく遠いものに感じた。
西一局。
基将の配牌は悪くなかった。萬子がまとまり、索子にも伸びがある。日本麻雀なら面子手に寄せ、牌効率で押していける手だ。
(まずは和了る。役は……役は何がある?)
平和。断么九。一気通貫。清一色。
知っている役の名前を頭の中で並べる。しかし、そのどれがこの国に存在し、どれが何点で、どれと複合するのかが分からない。
それでも基将は打った。
打つしかなかった。
数巡後、若い女将士が牌を倒した。
「フー。花竜」
「……もうか」
基将は唇を噛んだ。
彼女の手は、萬子、筒子、索子にまたがる不思議な並びだった。ぱっと見ただけでは高いのか安いのかも分からない。だが、周囲の反応を見る限り、十分な和了なのだろう。
点数が動く。
基将の持ち点はさらに沈む。
西二局。
今度は守りを意識した。
日本麻雀で培った読みを使い、危険そうな牌を避ける。河を見て、鳴きを見て、手出しとツモ切りを追う。筋、壁、序盤の捨て牌。使える材料はすべて使った。
だが、守ったところで勝てない。
この国の麻将では、全員が点を支払う。和了らなければ、沈む。振り込まなくても、沈む。
そして、現物という安全地帯もない。
「フー」
筋骨隆々の武人が重い声で宣言した。
基将の切った牌ではない。ツモ和了だった。
それでも基将の点は減った。
(放銃していないのに……また削られる)
分かっていたはずだった。
だが、実際に点棒ならぬ点数が削られていく感覚は、想像以上に重い。守っても失点する。攻めれば知らない役に刺さる。ならばどうすればいいのか。
西三局。
基将は《魔将の眼》を発動させた。
視界の端に淡い光が揺れる。相手の手の進行が、流れのように見える。誰が早いか、誰の手が重いか、どの牌が山に残っていそうか。その感覚だけは確かに鋭い。
(見える……見えてはいる)
しかし、見える情報の意味が分からない。
初老の男の手に浮かぶ気配は「全不靠」。若い女将士の手には「三色三歩高」。武人の手には「混一色」と「箭刻」。
読める。
だが、理解できない。
知らない言葉が光となって目の前に浮かんでいるだけだった。
(宝の地図を渡されて、文字が読めないみたいなもんだな……)
基将は苦笑しそうになった。
最強位。
日本の麻雀界で、何度もそう呼ばれてきた。読み、押し引き、手組み、精神力。どれも誰にも負けない自負があった。
だが今の自分はどうだ。
役も知らない。点数も知らない。終わりも知らない。安全牌も知らない。
卓についたばかりの初心者と、何が違うのか。
「どうした。手が止まっているぞ」
初老の男が言った。
基将は我に返り、牌を切った。
その一打が正しかったのかどうかさえ、分からなかった。
西四局に入る頃には、基将の心は折れかけていた。
牌を持つ指は震えていない。勝負の場で手が震えたことなど、ほとんどない。だが、胸の奥にある芯のようなものが、少しずつ削られていく。
(俺は、何をしている?)
基将は卓を見つめた。
勝つために打っているはずだった。
だが、今の自分は勝ち方を知らない。何を目指せばいいかも分からないまま、ただ牌を捨てているだけだ。
日本でなら、どんな劣勢でも逆転の道筋を描けた。残り局数、点差、親番、相手の性格、場況。すべてを組み合わせれば、必ず細い道が見えた。
だが、この卓ではその道筋が見えない。
暗闇の中で、知らない階段を下り続けているようだった。
「……っ」
基将は奥歯を噛み締めた。
悔しい。
負けることが悔しいのではない。
負け方すら分からないことが、悔しかった。
「そこまでにしておけ」
不意に、背後から声がした。
低く、よく通る声だった。
卓を囲む三人が、同時に動きを止める。若い女将士が背筋を伸ばし、武人がわずかに頭を下げた。初老の男でさえ、表情を引き締める。
基将はゆっくりと振り返った。
そこには、一人の老人が立っていた。
白く長い髭をたくわえ、深い藍色の長衣をまとっている。背は高くない。だが、その佇まいには、不思議な重みがあった。派手な装飾も武器もない。ただ立っているだけで、場の空気が静まる。
「老師……」
若い女将士が小さく呟いた。
老人は卓上の得点表に目を落とし、それから基将を見た。
「異国の者よ。名は?」
「……麻基将」
「アサ・モトマサ、か」
「麻が姓で、基将が名だ」
「ふむ。では、基将」
老人は穏やかな声で言った。
「おぬし、このまま打っても何も得られんぞ」
その言葉は、鋭かった。
馬鹿にする響きはない。責める響きもない。ただ事実だけを置くような声だった。
基将は反論できなかった。
「こいつは勝負を受けた。途中で止めるのは——」
初老の男が口を開きかける。
しかし老人が視線を向けると、それだけで言葉を飲み込んだ。
「勝負とは、互いにルールを知って初めて成り立つものだ。何も知らぬ者を座らせ、沈めるだけなら、それは試験にも稽古にもならん」
場が静まり返った。
基将は老人を見つめた。
救われた、と思った。
同時に、悔しさがこみ上げた。
自分は今、誰かに止めてもらわなければならないほど、無様に沈んでいたのだ。
「……俺は、負けたのか」
基将が呟くと、老人は静かに首を横に振った。
「まだ負けてもおらん」
「だが、この点差だ。何もできなかった」
「何も知らなかっただけだ」
老人は卓上の牌を一枚つまみ上げた。白だった。
「牌を知っていることと、麻将を知っていることは違う。おぬしは牌を知っている。指先も悪くない。河を見る目もある。だが、この国の麻将を知らぬ」
白が、静かに卓へ戻される。
「知らぬなら、学べばよい」
その言葉に、基将の胸の奥で何かが小さく鳴った。
十歳の頃、初めて牌に触れた日のことを思い出す。
萬子も索子も筒子も、何が何だか分からなかった。役の名前も、点数も、鳴きの意味も、すべて知らなかった。
それでも覚えた。
負けて、聞いて、考えて、また負けて。
そうやって、ここまで来た。
(そうか……)
基将はゆっくりと息を吐いた。
(俺はまた、最初に戻っただけか)
老人は背を向け、天牌閣の奥へと歩き出した。
「ついて来い、基将」
「どこへ?」
「茶でも飲みながら話そう。おぬしがこの国で生きるつもりなら、まず知らねばならんことが山ほどある」
老人は一度だけ振り返った。
「そして、おぬしの打ち筋についてもな」
基将は卓上の牌を見下ろした。
惨敗だった。
けれど、不思議と足元は先ほどよりも重くなかった。
知らないなら、学べばいい。
それは、麻雀を覚えた日の自分が、何度も繰り返してきたことだった。
基将は静かに立ち上がり、老将士の後を追った。
師匠っぽい人が出てきましたね
基将覚醒の日も近そうです




