13.礼法と点数記録
午後の礼法稽古は、基将の想像以上に厳しかった。
卓に座る角度。
牌山に触れる順番。
和了を宣言する時の声量。
倒牌する手の位置。
点数を申告する前に、相手へ確認を促す間。
それら一つ一つに決まりがあり、見習いたちは何度も同じ動作を繰り返させられた。
「違う」
礼法を教える中年の将士が、基将の手元を止めた。
「倒牌の時、手が牌の上を覆いすぎている。相手から見えぬ瞬間が生まれる」
「そんな一瞬でも駄目なのか」
「駄目だ。不正を疑われる余地を作るな」
基将は倒しかけた牌を戻し、もう一度やり直した。
「フー」
声を出し、手牌を倒す。
今度は、手首を少し外へ開き、牌の表面を隠さないようにする。
中年将士は無言で頷いた。
(細かいな……)
だが、理屈は分かる。
日本の競技麻雀でも、発声や倒牌、点数申告にはマナーがある。不正を疑われない所作は重要だ。ましてこの世界では、麻将が身分や契約を左右する。曖昧な動作は争いの種になる。
「次、点数申告」
中年将士が牌姿を並べた。
二三四萬、三四五筒、四五六索、白白白、南南。
「和了役を言え」
基将は牌姿を見る。
三色三歩高。白の箭刻。南の対子は役にならない。門前かどうか、自摸かロンかで変わる点もあるが、今は倒牌のみ。
「三色三歩高、箭刻。八点」
「足りない」
「声か?」
「役だ。萬子、筒子、索子、風牌、三元牌がすべて入っている。五門斉を見落としている」
基将は牌姿を見直した。
二三四萬。三四五筒。四五六索。白白白。南南。
たしかに、三色の数牌に、風牌の南、三元牌の白がある。
「五門斉、か」
「さらに門前なら門前清も付く。今は門前ロンの想定だ。もう一度」
「三色三歩高、五門斉、箭刻、門前清。十六点」
「声が低い。聞き取りづらい」
「三色三歩高、五門斉、箭刻、門前清。十六点」
「よし。次」
次に並べられたのは、筒子が多い手だった。
二三四筒、四五六筒、六七八筒、東東東、白白。
(清一色……いや、東があるから清一色じゃない。混一色か。筒子三組と東刻子、白対子)
「混一色、圏風刻……いや、東が圏風か自風か確認が必要」
「場は東場。自風は西」
「なら圏風刻。混一色六点、圏風刻二点。八点」
「また足りない」
「……まだあるのか」
「筒子の二三四、四五六、六七八を見ろ。一色三歩高だ」
基将は思わず顔をしかめた。
同じ色で、二つずつ数字がずれた三つの順子。
見れば分かる。だが、混一色と風牌に意識を取られ、完全に抜けていた。
「一色三歩高、混一色、圏風刻……」
「東の刻子は幺九刻にもなる。門前想定なら門前清も付く」
「一色三歩高、混一色、圏風刻、幺九刻、門前清。二十七点」
「よし」
中年将士が初めて少しだけ表情を緩めた。
基将は内心で息をつく。
役を読むこと自体は、少しずつ慣れてきた。だが、声に出して申告するとなると別の緊張がある。間違えれば錯和になる可能性もある。試験では許されたかもしれないが、実戦では致命的だ。
「点数記録に移る」
礼法稽古の後、見習いたちは別室へ移された。
そこには細長い机が並び、紙と筆が置かれている。
基将は筆を見て、少し嫌な予感がした。
「記録係は、卓の流れを正確に残さねばならん」
中年将士はそう言って、壁に掛けられた得点表を示した。
「親、場、和了者、放銃者、役、点、各者の支払い、残点。すべてを書く」
「全部か」
「全部だ」
日本でいう牌譜記録のようなものだろう。
ただし、この国では点のやり取りが全員に及ぶ。和了者が全員から受け取り、放銃者はさらに支払う。自摸なら全員が重く支払う。記録する内容は多い。
基将は筆を取った。
正直、字を書くこと自体にまだ慣れていない。こちらの文字は読めるものも増えてきたが、書くとなると手が遅い。
「まずは写せ」
中年将士が見本を置いた。
東一局、南家和了。
役、花竜八点。
放銃者、西家。
支払い。
基将は見本を見ながら、慎重に筆を走らせた。
墨が少しにじむ。
「遅い」
「字に慣れてないんだよ」
「卓は待たん」
「それは午前にも聞いた」
「なら覚えろ」
容赦がない。
だが、これも必要な稽古だ。
点数記録を理解すれば、国標麻将の点の動きが身体に入る。どの和了がどれだけ全体を動かすのか。放銃がどれほど重いのか。自摸られた時にどれだけ削られるのか。
単に打つだけでは見落とす部分が、記録には残る。
(なるほどな。記録係をやらせるのは、点数感覚を覚えさせるためでもあるのか)
基将は二枚目の記録に取りかかった。
南二局、東家自摸。
混一色、箭刻、自摸。合計点。
全員支払い。
基将は計算し、書き込む。
ふと、日本での点棒移動を思い出した。
親の満貫ツモ。子の跳満ロン。リー棒、供託、本場。
あちらにはあちらの複雑さがあった。こちらにはこちらの複雑さがある。
同じ牌を使っているのに、世界が違う。
その違いを、筆先が少しずつ教えてくれる。
「基将さん」
隣から小声がした。
翠蘭だった。
「ここ、放銃者の追加支払いが抜けています」
「本当だ」
基将は慌てて見直した。
和了者が全員から受け取る分は書いたが、放銃者の追加分を忘れている。
「助かった」
「よくある間違いです。日本の麻将では、放銃者だけが支払う形なのですか?」
「基本的にはな。ツモなら全員が払うが、ロンなら振り込んだ者だけが払う」
「それなら混乱しますね」
「かなり」
基将は苦笑した。
「ただ、このルールだと和了らない者も常に削られる。記録で見ると、思った以上に和了の価値が重い」
「だから、ただ守るだけでは勝てません」
「分かってきた」
翠蘭は自分の記録紙に目を戻した。
彼女の字は細く、整っている。計算も速い。
「翠蘭は正式将士に近いのか」
「まだです」
「そうか?」
「点数記録や礼法は得意ですが、実戦で押し切る力が足りません。私は迷いすぎる」
意外だった。
翠蘭は落ち着いていて、隙が少ないように見える。だが本人は、自分の弱点をはっきり分かっているらしい。
「迷うのは悪いことじゃない」
「でも、遅れます」
「遅れる迷いと、必要な確認は違う」
基将は記録紙に目を落としたまま言った。
「俺は今、ほとんど全部を確認しながら打ってる。遅い。だが、確認しないと間違える。いずれ速くするためには、今は遅くても正しく見るしかない」
翠蘭は少し黙った。
「老師のようなことを言いますね」
「やめてくれ。あんなに厳しくない」
「十分厳しいです」
翠蘭はかすかに笑った。
その表情は、これまでより少し柔らかかった。
夕刻まで、記録稽古は続いた。
基将の手は墨で汚れ、肩はこり、頭は数字でいっぱいになった。対局をしていないのに、半荘を三回打ったくらい疲れている。
最後に中年将士が紙を回収し、一枚ずつ確認した。
「基将」
「はい」
「字は汚い。計算は遅い。だが、間違いは後半減った」
「褒めてるのか?」
「事実を言っている」
「それはどうも」
「明日も同じ時刻に来い」
基将は思わず天井を見た。
「毎日か」
「当然だ。競技会に出るなら、最低限の記録も読めねばならん」
「分かったよ」
中年将士は無表情のまま去っていった。
陸青が後ろから近づいてくる。
「生きてる?」
「ぎりぎりな」
「最初はみんなそう。僕なんて一日目、点数表を逆に書いて床拭き三日だった」
「それは余計なことを三つ混ぜたからじゃないのか」
「違うよ! たぶん!」
基将は笑った。
疲れている。
だが、悪い疲れではない。
対局以外の時間に、これほど麻将を学ぶことになるとは思わなかった。礼法、記録、食堂の木札、牌の手入れ。すべてがこの世界の麻将を形作っている。
夜、自由稽古の時間になった。
広間では何卓かが立ち、見習いたちが練習を始めている。
基将は卓に座ろうとして、ふと足を止めた。
今打てば、疲れで判断が鈍る。
だが、疲れた時にどう打つかも知っておく必要がある。
迷っていると、玄庵が背後に立っていた。
「今日は打つな」
「見てたのか」
「見るまでもない。顔に疲れが出ておる」
「顔に出るのはよくないな」
「よい。今のおぬしは隠すほどの余裕もない」
玄庵は一冊の薄い牌譜を差し出した。
「今夜はこれを読め」
「何の牌譜だ」
「明後日の競技会でよく使われる会場の記録だ。若手がどのような手を好むか、少しは見えてくる」
基将は牌譜を受け取った。
墨の匂いがする。
「予習か」
「そうだ。勝負は卓に座る前から始まっておる」
「それは同意する」
基将は牌譜を開いた。
そこには、花竜、混一色、碰碰和、全不靠、三色三歩高といった役名が並んでいた。
まだ全部をすらすら読めるわけではない。
だが、昨日よりは分かる。
一昨日よりは、確実に見える。
基将は広間の片隅に座り、牌譜を読み始めた。
対局していない時間も、麻将は続いている。
この世界の勝負は、思ったよりずっと深く、ずっと生活に近かった。




