12.木札と階級
昼前、基将は天牌閣の食堂にいた。
長い木の卓がいくつも並び、見習いや下級将士たちが思い思いに席を取っている。湯気の立つ粥、香草の入った汁物、蒸した饅頭。見慣れない料理ばかりだったが、空腹には十分すぎるほどありがたかった。
「木札を出してください」
配膳口の前で、年配の女が言った。
基将は懐から見習い将士の木札を出す。
女は木札の印を見て、粥の器を一つ、饅頭を二つ、漬物の小皿を置いた。
「見習い一人分ね」
「ありがとう」
「明日の朝はもっと早く来な。遅いと粥が薄くなるよ」
「覚えておく」
基将は盆を持って席を探した。
すると、陸青が手を振っているのが見えた。隣には柳翠蘭もいる。基将はそこへ向かった。
「こっちこっち。見習い初日は席を探してる間に冷めるからね」
「助かる」
基将は腰を下ろし、粥を一口すすった。
薄味だが、身体に染みる。朝から牌磨きと水仕事をしたせいか、想像以上に腹が減っていた。
「木札で飯の量まで決まるのか」
「決まるよ」
陸青が饅頭をかじりながら答えた。
「見習いは粥と饅頭二つ。正式な将士になると肉か卵がつく。上級将士は別室で食べる。老師みたいな人は、食べたいものを頼める」
「分かりやすい格差だな」
「身分の国だからね」
翠蘭が静かに言った。
「ただ、天牌閣はまだ公平な方です。少なくとも、木札を得れば食事と寝床は保証されますから」
「他は違うのか」
「地方の小さな閣では、見習いが自分で食費を稼がなければならないところもあります。賭場に出て、負けて、借りを作って潰れる人もいる」
基将は箸を止めた。
麻将で身分が決まる世界。
聞こえは面白いが、実際にはかなり厳しい。勝てる者は上へ行ける。だが、勝てない者は生活そのものが不安定になる。
「天牌閣は、大将国の中でも大きい組織なのか」
「城下では三本の指に入ります」
翠蘭が答えた。
「王城直属の牌院、商会が支える金鳴楼、そして私たちの天牌閣。天牌閣は古くから将士を育てる場所として知られています」
「学校みたいなものか」
「学校?」
「若いやつを集めて教える場所だ」
「近いかもしれません。ただ、教わるだけでは残れません。定期的に試験があり、成績が悪いと木札を返さなければなりません」
「返すとどうなる」
「天牌閣の見習いではなくなります」
翠蘭の声は平静だった。
だが、その意味は重い。
食事も寝床も、稽古場も失うということだ。
「見習いの階級は?」
基将は木札を見ながら尋ねた。
陸青が嬉しそうに身を乗り出した。
「僕が説明する」
「余計なことを三つ混ぜるなよ」
「混ぜないよ」
陸青は指を立てた。
「まず、見習い将士。基将さんが今ここ。木札の線が一本」
「これだな」
「次が準将士。線が二本。天牌閣の外でも、簡単な公式卓に出られる」
「公式卓」
「身分や商取引を決める卓だよ。もちろん大きな裁定は無理だけど、小さな契約なら準将士が立ち会える」
「麻将が公証人みたいな役割もするのか」
「公証人?」
「契約を証明する人だ」
「たぶんそれ」
陸青はさらに指を立てた。
「その上が正式な将士。木札じゃなくて銅牌になる。城下の競技会に正式参加できるし、賭場でも天牌閣所属として打てる」
「銅牌か」
「さらに銀牌、金牌。そこから上は僕もよく分からない」
翠蘭が補足する。
「銀牌将士は地方大会で実績を持つ者。金牌将士は国の公的な勝負に呼ばれる者です。さらに王城には玉牌を持つ者がいると言われています」
「玉牌」
「王の前で打つことを許された将士です」
基将は粥をすすりながら、頭の中で整理した。
見習い。
準将士。
正式将士。
銅、銀、金、玉。
身分と実力が牌によって可視化される世界。
日本のプロ団体やタイトル戦とは違う。こちらでは生活、職、政治に直結している。
(最強位から見習い木札一本か)
基将は自分の木札を見た。
情けないと思う気持ちは、少しある。
だが、それ以上に分かりやすかった。
今の自分の立ち位置が、はっきり見える。
「基将さんは、どこまで行きたいんですか」
翠蘭が尋ねた。
「どこまで?」
「この国で。見習いで身分を得るだけなのか、正式将士を目指すのか、それとももっと上を目指すのか」
基将はすぐには答えなかった。
異世界に来たばかりだ。
右も左も分からない。今はまだ、食堂の粥の取り方すら教わっている。
だが、卓に座った時の感覚は覚えている。
負けて、悔しくて、それでも次を打ちたいと思った。
その気持ちがある限り、答えは一つしかない。
「上だな」
基将は言った。
「どこまでかは知らない。だが、打つ以上は上を目指す」
陸青が目を輝かせた。
「金牌?」
「その上があるなら、その上だ」
翠蘭が静かに基将を見た。
「玉牌まで?」
「行けるかどうかは知らない。だが、最初から無理だと決める理由もない」
「……異国の人は大きく出るね」
陸青が笑った。
だが、翠蘭は笑わなかった。
「玉牌を目指すなら、この国の麻将だけでは足りません」
「どういうことだ」
「大将国の国標麻将は基本です。ですが、王城に近づくほど、他国の使者や異国の将士と打つ機会が増えます。西方の立直麻将、南方の花牌麻将、北方の連荘戦、海向こうの牌九混じりの変則卓……」
「待て」
基将は思わず手を上げた。
「そんなにあるのか」
「あります」
翠蘭は当然のように頷いた。
「この世界では、国ごとに麻将の形が違います。大将国では国標が中心ですが、それがすべてではありません」
基将はしばらく黙った。
日本麻雀から国標麻将へ。
それだけでも十分に衝撃だった。
だが、この世界にはさらに別のルールがある。
国ごとに異なる麻将。
魔技を持つ将士たち。
身分と政治を決める卓。
(冗談みたいな世界だな)
しかし、胸の奥が熱くなる。
知らないルールがある。
知らない打ち手がいる。
知らない勝負が待っている。
五十歳で、自分の麻雀人生の頂点を迎えたと思っていた。
だが、ここにはまだ山ほど先がある。
「基将さん?」
翠蘭が声をかけた。
「いや」
基将は粥の器を置いた。
「楽しみになってきただけだ」
「普通は不安になるところだよ」
陸青が呆れたように言う。
「不安もあるさ」
基将は木札を指でなぞった。
「だが、知らないなら覚えればいい。昨日もそう決めた」
その時、食堂の入口から声が響いた。
「見習いども、午後の礼法稽古だ。遅れた者は広間の床拭き追加だぞ」
見習いたちが一斉に立ち上がる。
陸青が慌てて饅頭を口に詰め込んだ。
「急いで! 床拭き追加は本当にきつい!」
「分かった」
基将は盆を持って立ち上がった。
木札一本。
見習い将士。
その小さな身分から、どこまで上がれるのか。
まだ分からない。
だが、道は見えた。
まずは午後の礼法稽古。
玉牌への道は、どうやら粥と饅頭と床拭きの先に続いているらしい。




