11.見習い将士の朝
天牌閣の朝は早い。
まだ空が薄青く、城下の通りに人の声が満ちる前から、広間の奥では牌の触れ合う音が響いていた。
かちゃり、かちゃり。
それは対局の音ではない。
牌を磨く音だった。
「……まさか、異世界に来て最初の仕事が牌磨きとはな」
基将は低い卓の前に座り、布で一枚ずつ牌を拭いていた。
目の前には、昨夜使われた牌が山のように積まれている。白くくすんだもの、手脂でわずかに曇ったもの、角に細かな傷が入ったもの。天牌閣では毎朝、見習いが牌を点検し、汚れを落とし、欠けや歪みがないかを確認するのだという。
麻雀最強戦三連覇。
日本麻雀界の頂点。
そんな肩書きは、今この場では何の役にも立たなかった。
基将の前にあるのは、ただの一索だった。
緑の模様を布で拭きながら、基将は苦笑した。
(まあ、牌を雑に扱うやつに強いやつはいない……ってのは、どの世界でも同じか)
牌を磨く作業自体は嫌いではない。
日本でも若い頃、雀荘で卓を拭き、牌を揃え、点棒を数えたことがある。プロになってからは誰かが準備してくれる場に座ることが増えたが、牌に触れる前の静かな時間は嫌いではなかった。
ただ、今の自分は見習いだ。
比喩ではなく、本当に見習いからやり直している。
「手が止まってるぞ、異国の人」
横から声がした。
見ると、小柄な少年が桶を抱えて立っていた。昨日の稽古卓で下家に座っていた将士だ。名を陸青といった。年は十五だが、天牌閣に入って二年になるらしい。
「考えごとだ」
「見習いが朝から考えごとなんて十年早いよ」
「十五のやつに十年早いと言われるとは思わなかったな」
「ここでは僕の方が先輩だからね」
陸青は得意げに胸を張った。
基将は笑いながら牌を拭き続ける。
「その桶は?」
「洗牌用の水。汚れがひどい牌はこっちで洗う。水に浸しすぎると牌が傷むから、手早くやるんだ」
「牌を洗うのにも作法があるのか」
「当然。牌は将士の命だからね」
その言い方に、基将は少しだけ感心した。
若いが、言葉には誇りがある。
天牌閣にいる者たちは、麻将をただの遊びとは見ていない。身分を得るための技であり、名を上げるための道であり、国を動かす力でもある。
牌を磨くことも、その一部なのだろう。
「木札はちゃんと持ってる?」
陸青が尋ねた。
「これか」
基将は懐から木札を取り出した。
昨日渡されたばかりの見習い将士の木札だ。表には「基将」の名と、天牌閣の印。裏には見習いを示す細い線が一本刻まれている。
「なくすと面倒だよ。食堂で飯が出ないし、稽古場にも入れないし、外の巡士に止められる」
「身分証か」
「そう。あと、見習いは勝手に賭場で打っちゃ駄目」
「賭場?」
「城下には公認の賭場があるんだ。強い将士ならそこで稼げるけど、見習いが勝手に打つと天牌閣の責任になる」
「なるほど。看板を背負ってるわけだ」
「そういうこと」
陸青は桶を置き、牌の山を覗き込んだ。
「あ、これ欠けてる」
彼は一枚の九筒をつまみ上げた。
基将が見ると、たしかに角の一部がわずかに欠けている。ぱっと見では分からないが、指で触れれば違和感がある。
「こんなのも使えないのか」
「使えない。触っただけで分かる人がいるから」
「積み込みや牌の識別に使えるってことか」
「そう。だから欠けた牌は練習用に回すか、破棄する」
基将は九筒を受け取り、指で角をなぞった。
たしかに、わずかに引っかかる。
日本でも、牌の傷や背の模様の違いに神経を使う場はあった。だが、この世界ではさらに厳しい。魔技が存在する以上、わずかな違和感も勝負に影響するのだろう。
(牌の管理からして、戦いの一部か)
そう考えると、牌磨きも単なる雑用ではない。
牌に触れ、傷を知り、重さを知り、手触りを知る。卓に座る前の基礎だ。
「顔が変わった」
陸青が言った。
「何が」
「さっきまで不満そうだったのに、今は面白そう」
「不満そうだったか?」
「かなり」
「顔に出るのはよくないな」
「老師にも言われるよ」
陸青が笑った。
その時、広間の戸が開き、朝の光が差し込んだ。
入ってきたのは、痩せた女将士だった。昨日の稽古卓で上家に座っていた人物だ。名は柳翠蘭。基将より少し年下に見えるが、落ち着いた雰囲気を持っている。
「陸青、遊んでいないで手を動かしなさい」
「遊んでないよ。異国の人に仕事を教えてた」
「基将さん、困ったら私に聞いてください。陸青は教える時に余計なことを三つ混ぜます」
「ひどい」
陸青が頬を膨らませる。
基将は軽く頭を下げた。
「助かる。まだ何も分からないからな」
「見習い初日は誰でもそうです」
翠蘭はそう言うと、牌の山を手際よく分け始めた。
欠けた牌。汚れた牌。問題ない牌。練習用に回す牌。
その動きは速く、無駄がない。基将は思わず見入った。
「慣れてるな」
「三年目ですから」
「見習い三年?」
「ええ。天牌閣では、見習いから正式な将士になるまで人によって差があります。早い人は一年。遅い人は五年。それ以上かかる人もいます」
「厳しい世界だ」
「麻将で身分が決まる国ですから」
翠蘭は淡々と言った。
その言葉を、基将は昨日も何度か聞いた。
だが、朝の雑務をしながら聞くと、少し違って響いた。
この国では、麻将が特別な儀式や大会の時だけに存在するのではない。飯を食うこと、身分を示すこと、働くこと、道を歩くこと。そのすべてに繋がっている。
勝てば上がる。
負ければ沈む。
単純だが、重い。
「基将さんは、昨日の試験で一回和了りましたよね」
翠蘭が言った。
「三色三歩高と白の箭刻だ。門前清を申告し忘れたがな」
「あれは悪くありませんでした。ただ、發を鳴かせる判断は危うかった」
「やっぱりそう見えたか」
「見えました」
翠蘭は遠慮なく頷いた。
「でも、鳴かせた後に崩れなかったのは良かったです。多くの見習いは、危険な選択をした後、次の一打が乱れます」
「耳が痛いな。俺も昔はそうだった」
「昔?」
「俺の国で打ち始めた頃だ」
基将は牌を拭きながら言った。
「危険牌を押した後に、通った安心で次の危険を見落とす。逆に一度刺さると、今度は全部が怖くなる。何度もやった」
陸青が目を丸くした。
「異国の人も初心者だったことあるんだ」
「当たり前だろ」
「なんか、老師が見込んだ人って最初から強いのかと思ってた」
「最初から強いやつなんていない」
基将は一筒を布で磨いた。
「強くなるやつは、負けた後に何をするかが違うだけだ」
その言葉に、陸青も翠蘭も少し黙った。
基将自身も、口にしてから胸の奥に響くものを感じた。
自分に言っているようでもあった。
昨日、見習い試験には合格した。
だが、それだけだ。
この世界での自分はまだ弱い。役を覚え始め、ようやく一度正式に和了れた程度。かつての最強位という自負にすがれば、すぐにまた足をすくわれる。
「いいことを言うではないか」
背後から声がした。
振り返ると、玄庵が立っていた。
いつから聞いていたのか分からない。相変わらず気配の薄い老人だ。
「老師」
翠蘭と陸青が姿勢を正す。
基将も軽く会釈した。
「朝から見張りか?」
「見習いが怠けておらぬか見に来ただけだ」
「怠ける暇もない」
「ならよい」
玄庵は基将の手元を見た。
「牌の傷は見分けられるか」
「少しはな」
「見習いの仕事は雑用ではない。牌を知る稽古だ」
「さっき同じことを考えてた」
「ならば少しは進歩しておる」
玄庵は満足げに頷いた。
「午前は牌の手入れ。昼前に食堂。午後は礼法と点数記録。夕刻に牌譜読み。夜は自由稽古だ」
「詰め込みすぎだろ」
「明後日には競技会だ」
「やっぱり出す気か」
「当然だ。見習いになった翌日に遊ばせるために木札を渡したのではない」
基将はため息をついた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
やるべきことがある。
覚えるべきことがある。
負けた理由を潰すための一日がある。
五十歳になった自分が、また朝から牌を磨き、年下の先輩に注意され、老将士に予定を詰め込まれている。
滑稽といえば滑稽だ。
だが、悪くない。
「分かったよ」
基将は牌を一枚、光にかざした。
表面の曇りが消え、白い牌が朝の光を受けて静かに輝く。
「まずは牌磨きから、だな」
玄庵は小さく頷いた。
「そうだ。最強を名乗る者ほど、最初の一枚を粗末にしてはならん」
基将は返事をせず、次の牌を手に取った。
見習い将士としての一日が、静かに始まった。




