第5話
その噂を耳にするようになったのは、巡行団が王都を発って半年ほど経った頃だった。
「聖女様と護衛の騎士様、ずいぶん親しいらしいよ」
「巡行先でも、いつもお側にいるんですって」
「美男美女で、とても絵になるらしいわ。それってもしかして――」
王立図書館へ向かう途中、騎士団の訓練場を眺めていた若い女性たちが、楽しそうにそんな話をしていた。
「……嫌だな」
小さく呟いて、その横を通り過ぎる。
以前は新聞の一面に、聖女様がどこの神殿へ到着したとか、祝福を受けた人々の言葉だとか、そんな記事がよく載っていた。
最近ではそれも少なくなり、代わりに耳へ入ってくるのは、こんな噂ばかりだ。
みんな、こういう話が好きなのね……。
ところが、それからしばらくすると、噂は妙に具体的になっていった。
『ルーヴェン大神殿で、聖女様と護衛騎士が二人で手を繋いでいた』
『その騎士は、黒髪で背の高い男だった』
黒髪。背が高い。
その言葉を聞くたび、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
――でも、黒髪で背の高い騎士なんて、ほかにもいたはず。
そう言い聞かせていたのに。
「それって、ディーン・レイモンド様じゃない?」
「えっ、嘘!? ディーン様なの!?」
「そうそう。巡行に同行している騎士で当てはまるの、あの方くらいでしょう?」
そんな声が背後から聞こえてきて、思わず足が止まりそうになった。
「……違う。ディーン様じゃない……」
誰に聞かせるでもなく呟いて、その場を離れた。
ただでさえ、数日前には婚約者が我が家を訪ねてきたばかりで、気が滅入っていた。
婚約者は王都へ用事があり、そのついでに立ち寄ったという。顔を合わせるのは、その日が初めてだった。
『王宮の夜会へ出た経験は?』
『……ございません』
『そうか。それは困るな』
そのあとも、どんな勉強をしているのか、礼儀作法はどこまで身についているのかと、次々に尋ねられた。
私なりに答えると、辺境伯はしばらく考えたあと、
『まあ、許容範囲だな』
そう言った。
それから私の身体を上から下まで眺め、
『しかし、もう少し太った方がいい。跡継ぎを産むのだから、もう少し健康的でなければ困る』
とも言われた。
思い出すだけで、また気持ちが沈んだ。
「……もう嫌……」
その夜、私は布団にくるまりながら呻いた。
婚約者には品定めをされ、そのうえ、ディーン様には聖女様との噂まである。
胸が痛くて仕方がなかった。
「こういう時は……」
嫌なことがあると、私はよくディーン様のことを思い出した。
勉強を教えていただくようになって、しばらくした頃のことだ。
図書館へ向かう途中、訓練場の前でディーン様が一人の令嬢に呼び止められているのを見かけた。
『ディーン様、三日後は空いていらっしゃいますか?』
その日は、いつも図書館で勉強を教えていただいている日だった。
胸がざわついて、私は二人の横を足早に通り過ぎた。
そして当日、いつものように図書館へやってきたディーン様に、私はできるだけ何でもないことのように尋ねた。
『あの……もしご予定があるのでしたら、そちらを優先してくださいね』
『? 予定?』
ディーン様は不思議そうな顔をした。
結局その日も、いつもと同じように閉館近くまで勉強を教えてくれた。
「……うん」
思い出すと、少しだけ胸の苦しさが和らいだ。
「……それにしても」
こんな噂を、放っておいてよいのだろうか。
聖女様は国を代表して巡行している。
ディーン様だって、騎士団を代表してその護衛に選ばれたはずだ。
そんな二人が、巡行先で恋愛沙汰を起こしているように噂されている。
「……騎士団としても、不名誉な噂なのでは?」
私はむくりと起き上がった。
本当なら、騎士団から何か説明があってもいいのではないだろうか。
「……明日、行ってみよう」
◆
翌日、私は王都騎士団の本部を訪ねた。
訓練場の前なら何度も通ったことがあるけれど、中へ入るのは初めてだ。
緊張しながら受付へ向かう。
「あの……騎士団長様にお話があるのですが」
受付にいた騎士が顔を上げた。
「団長に? どういった用件で?」
「今、市井で広がっている……聖女様と、巡行に同行している騎士様についての噂のことで」
「ああー……」
騎士は、またかというように肩を落とした。
「その話ね」
「ご存じなのですか?」
「そりゃあ知ってるよ。最近、それを聞きに来る人が多くてさ」
困ったように頭を掻く。
「特にレイモンドのことを聞きたがる女性が多いんだ。『本当に聖女様と付き合っているんですか』とか、『帰ってきたら結婚するんですか』とか」
「い、いえ、そういうことを聞きたいのではなくて……」
慌てて首を振る。
「このような噂を、騎士団として放置していてよいのでしょうか」
騎士が一瞬、意外そうな顔をした。
「よくはないよ。でも、仕方ないだろ?」
「……え?」
「噂されるようなことをしてるんだから」
胸の奥が冷たくなった。
「そ、そんな……どうして、そう言い切れるのですか」
騎士は少し言いにくそうにしたあと、あっさり答えた。
「そもそも、今回の巡行護衛に名乗り出たの、レイモンド本人だしな」
「……え?」
頭の中が、一瞬真っ白になった。
「ディーン様が……自分から?」
「ああ。聖女様の護衛に自分から志願して、実際に選ばれた。そのうえ巡行先でもずっとお側にいるんだ。そりゃあ、噂されても仕方ないだろ?」
◆
家に帰ってからも、その言葉が頭から離れなかった。
――ディーン様が、自ら志願した。
「……そうよ」
ディーン様は高潔な方だ。
聖女様の巡行を守るため、自分から護衛を望むことだって、何もおかしくない。
それなのに私は、何を考えているの……。
「――だ。聞いているのか、アリア!」
「……っ!」
はっとして顔を上げると、机の向こうに座る父が眉間に皺を寄せていた。
「申し訳ありません……」
「まったく。王太子殿下主催の夜会がある。お前も出席しろ」
「私が、ですか?」
「ああ。ちょうどいい機会だ。辺境伯へ嫁ぐ前に、少しは王宮の夜会にも慣れておけ」
「……分かりました。あの、お父様は?」
「私は行かん」
父は興味を失ったように書類へ目を落とした。
「あの……夜会となると、ドレスが……」
「ジゼルのものがいくらでもあるだろう。適当に直して着ろ」
「……はい」
それ以上何も言えず、私は父の執務室を出た。
自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、姉の部屋から楽しそうな声が聞こえてきた。
「ねえ、見て。この指輪、素敵でしょう? あの方が贈ってくださったの」
嬉しそうに笑う姉の声。
「……いいなぁ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
普段なら、姉がどれだけ着飾っていても、何を贈られていても、羨ましいなんて思わないのに。
今日だけは、どうしても駄目だった。
自分の部屋へ戻ると、扉を閉め、その場にしゃがみ込んだ。
涙がぽろぽろと落ちていく。
もし、私が長女だったら。
もっと美しかったら。
あるいは――聖女様のような、誰からも敬われる女性だったら。
ディーン様の隣に、堂々と立つことができたのだろうか。
「……っ」
仕事は、まだ見つかっていない。
この小さな部屋からも、この家からも出られない。
婚約の日取りは、少しずつ近づいている。
このまま何も変わらなければ、半年後には私はもう王都にはいないだろう。
その事実が、急に恐ろしくなった。




