第6話
翌日も、私はいつもどおり王立図書館へ向かった。家にいたところで、苦しくなるだけだった。
騎士団の訓練場の前を通りかかると、また若い女性たちの声が耳に入ってくる。
「今度はミレアですって。そこで聖女様とディーン様が二人で――」
「ここまで噂になるなら、本当に何かあるんじゃない?」
「巡行が終わったら結婚したりして」
楽しそうな笑い声。
私は足を止めず、そのまま通り過ぎた。
「……みんな、気にならないのね」
聖女様と、その護衛騎士。そんな二人に恋の噂があっても、人々はむしろ面白がっている。
図書館へ着くと、いつもの席に座り、本を開いた。
気になって調べてみれば、どうやら今に始まったことでもないらしい。過去にも巡行の途中で、聖女と騎士、あるいは聖女と聖職者の間に恋の噂が立ったことがあった。
中には、本当に想い合っていた者たちもいたという。巡行を終えたあとに騎士団を辞めたり、聖職を離れたりして、二人で国を出て新しい暮らしを始めた者もいた。
当時の記録を見る限り、それを祝福する人々も少なくなかった。
「……本当に、そうなの?」
頁を持つ手に、ぎゅっと力がこもる。
『……また、王都で会おう』
あの日のディーン様の声が蘇る。
そしてもう一つ。
『わたくしが赴く巡行ですもの。神はきっと、最後まで正しくお導きくださいますわ』
あの二人が、本当に――。
「アリア嬢」
「……っ!」
突然名前を呼ばれ、顔を上げた。
こちらへ歩いてくるユフィル様の姿が見える。その手には、何枚もの書類が抱えられていた。
そうだ。ユフィル様なら、何か知っているかもしれない。
噂について聞いてみようと口を開きかけた、そのときだった。
「おめでとう」
「……え?」
ユフィル様が笑った。
「王宮女官。採用されたよ」
「……えっ? ええっ!?」
思わず大きな声が出て、慌てて両手で口を塞ぐ。周囲から向けられた視線に、何度も頭を下げた。
「う、嘘……ほ、本当ですか?」
「こんなことで嘘ついてどうするんだよ。ほら」
差し出された書類を、震える手で受け取った。
王宮女官としての採用通知。そこには、確かに私の名前が書かれていた。
「……本当に……私の名前がある……」
嬉しい。夢にまで見たはずなのに、すぐには信じられなかった。
「いいのでしょうか……私、身元保証をしてくださる方もいませんし……それに、婚約もしている身なのに……」
「ああ。その辺りも問題ない」
ユフィル様はそう言うと、抱えていた書類の中から、もう一枚を取り出した。
「君の身元については、王宮側で保証することになってる」
「王宮が……? どうして、私を……」
「君が優秀だからだよ。前に書いていただろう? 小論文もいくつか提出されてる。あれもかなり評価されたらしい」
「そうですか……」
小論文については、以前ディーン様にも褒めていただいたことがある。
『職業斡旋所の問題点がよくまとまっているな。地方の求人をもっと積極的に扱うべきだという意見も、筋が通っている』
だから、あの小論文には少々自信があった。
けれど、なぜだろう。何かが引っかかった。
私はユフィル様の顔をじっと見つめた。
「何かな?」
「……」
「……」
そのまま黙って見つめ続けると、
「……まあ、君は疑問に思うよな。そういう子だもんな」
ユフィル様が諦めたように息を吐いた。
「あいつが、王宮に話を通したんだ」
「……ディーン様が?」
そんなことができるのだろうか。
いくらディーン様が優秀な騎士とはいえ、王宮女官の採用にまで口を出せるような立場ではないはずだ。たとえ騎士団長だったとしても、簡単なことでは――。
「……まさか」
ユフィル様は困ったように笑った。
「今回の巡行の褒賞だよ。巡行へ赴く騎士は、任務を果たした際に受け取る褒賞について、あらかじめ希望を出すことができる。昇進でも金でも、功績に見合う範囲なら考慮されるんだ」
そこで一度言葉を切り、私を見る。
「あいつはその褒賞として、君に王宮女官の受験資格を与えることと、王宮に身元保証をしてもらうことを願い出た」
「そんな……」
手の中の採用通知が震えた。
「もちろん、受かったのは君の実力だからね。それと、これ」
ユフィル様が懐から、折り畳まれた一通の手紙を取り出した。
「預かってた。もし君がこのことに気づいたら、渡してくれって」
震える指で手紙を受け取り、急いで開く。
そこに並んでいたのは、何度も見たことのあるディーン様の文字だった。
『アリアへ。
王宮女官として認められたのは、君がこれまで努力してきたからだ。
私は、門を開けてもらっただけにすぎない。
だから、自信を持って働けばいい。
もう、家の都合だけで自分の人生を決める必要はない。
君は自由だ。』
「ディーン様……」
涙が滲み、文字がぼやける。
手紙にはまだ続きがあった。涙を拭い、最後の一文へ視線を落とす。
『そして、私のことは忘れるように』
「……どうして……」
「……アリア嬢。巡行っていうのはな、ただ三年間、神殿を回って帰ってくる旅じゃない」
私はゆっくりと顔を上げた。
「いくつもの山を越える。病が流行っている土地へ入ることもあれば、賊に襲われることだってある」
ディーン様も言っていた。馬車も通れない場所へ、聖女様は足を運ぶのだと。
あのとき私は、聖女様は立派な方なのだと、それくらいにしか考えていなかった。
「名誉な任務なのは間違いない。でも――誰も、三年後に必ず戻ってこられるとは言えない」
「……嘘……」
「だから、あいつは出発前に、自分ができることを済ませておきたかったんだろうな」
胸が苦しい。
あの日、遠ざかっていったディーン様の背中が蘇る。
――あの人は、どんな気持ちで王都を発ったのだろう。
――あの人は、どんな気持ちで巡行路を教えてくれていたのだろう。
「……いらなかったのに……」
「え?」
「自由なんて、いらなかったのに……!」
涙が次から次へと溢れてきた。
「こんな離れ方をするくらいなら……何も、欲しくなかった……!」
自由も、居場所も、未来も。
こんなかたちで手に入るくらいなら、何もいらない。
だから――。
「……帰ってきて……」
聖女様と結ばれていてもいい。
私ではない誰かと幸せになる姿でもいい。
ただ、無事に戻ってきてくれるなら。
声を震わせながら、私は泣き続けた。
しばらくして、ユフィル様が口を開いた。
「……それとな。今、王都で流れてる噂のことだけど」
私は涙を拭いながら顔を上げた。
「あいつのことは、信じてやってほしい」
「ユフィル様……」
「あいつが聖女様に、特別な感情を持つはずがない。それに――」
ユフィル様は少し言いにくそうに頭を掻いた。
「仮に聖女様に好意を持ったとしても、任務中に周囲へ分かるような振る舞いをする男じゃないだろ?」
「はい……」
迷わず頷くと、ユフィル様はほっとしたように笑った。
「俺も気になって、噂の出どころを少し調べたんだ」
「……何か、分かったのですか?」
「いや。正確には、分かりかけたところで止めた。どうも、かなり上の方が絡んでる」
ユフィル様の声が低くなる。
「証拠もないのに、俺の立場でこれ以上踏み込むのはまずい。俺一人の問題じゃ済まなくなるからな」
ユフィル様自身、名のある家の出身だったはずだ。そんな彼が、これ以上は踏み込めないと言う。その相手がどれほどの立場なのかを想像すると、背筋が寒くなった。
「だから今は、これ以上動けない。悪い」
ユフィル様は立ち上がると、迷ったようにこちらを見た。
「あとさ。これはあいつに言ったら、たぶん怒られるんだけど」
「……?」
「できれば、待ってやってほしいんだ。親友としてのお願い」
「……え?」
「じゃあな」
それだけ言い残し、ユフィル様は逃げるように歩いていった。
私はしばらくその場を動けなかった。
やがて、採用通知とディーン様からの手紙を大切に胸へ抱き、図書館をあとにした。
帰り道、外へ出るとまだ日は高かった。
騎士団の訓練場の前を通りかかると、行きに見かけたのとは別の令嬢たちが、楽しそうに話していた。
「ミレアでも一緒だったんですって」
「もう間違いないんじゃない? 聖女様とディーン様」
「巡行が終わったら、そのまま結婚したりして」
私は足を止めた。
「あの……」
声をかけると、令嬢たちが一斉にこちらを見る。
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」




