第3話
それから出発までの間も、ディーン様は変わらず勉強を教えてくれた。ただ、以前と少し変わったこともある。
「巡行では、こちらから北へ向かうのですか?」
「ああ。まずはルーヴェンの街だな」
ディーン様の指が、机に広げた地図の上を滑っていく。
巡行が決まってからは、地理を学びながら、その道程について教えてもらうことが増えた。
「それからこの道を通って、次の神殿へ向かう」
「ずいぶん効率よく各地を巡るのですね」
「ああ。巡行の道筋は昔からある程度決まっている。神殿を順番に回れるようにな」
ディーン様の指を目で追いながら、私も地図をなぞる。
「では、この流れだとグラントも通るのですよね」
「本来ならな。だが少し前に崖崩れがあった。おそらく今回は通らないだろう」
「そうなると……ミレアを通るのでしょうか」
私は少し考えて、別の街道を指差した。
「俺もそう思う」
「でも、かなり遠回りになりますね」
「ああ。だが、行かないわけにもいかないからな」
ディーン様は地図を見つめたまま答えた。
「聖女様も、できる限り多くの土地を回りたいと仰っているそうだ」
「さすが聖女様……こんな遠いところまで」
「ああ。病で神殿まで来られない者のところへも、可能な限り足を運びたいと。馬車も通れない道も多いというのに、大した方だと思う」
その声に敬意が滲んでいるのが分かり、胸の奥がちくりと痛んだ。
――馬鹿ね。
そんな立派な方を敬うなんて、当たり前のことなのに。それなのに私は、
――ディーン様は、ああいう尊敬できる女性が好きなのかな。
そんなことを考えてしまう。
自分が嫌になって、私は慌てて小さく首を振った。
「どうした?」
「いえ……聖女様って、どんな方なのかなと思って」
「ああ。王都を発つときは、巡行団を見送るために大通りへ人が集まる。そのときに見られると思うぞ」
「本当ですか? ということは、ディーン様も?」
「ああ」
ディーン様が苦笑する。
「しかし、見ても面白いものじゃないぞ」
「でも、巡行の護衛なら礼装をなさるのでしょう?」
ディーン様が礼装されているところなんて、見たことがない。普段の騎士服でも素敵なのだから、きっと――。
そう考えただけで、頬が緩んだ。
「……私を見に来てどうする」
「えっ、い、いえ! もちろん聖女様も見てみたいですけど……」
慌てて言い訳をするほど、顔が熱くなっていく。
誤魔化すように、私は地図を指差した。
「そ、そういえば! ルーヴェンの街って、確か湖が有名なのですよね?」
「ああ、そうだったな」
「晴れた日には、湖面がとても綺麗に見えるんですよね。いいなぁ……」
思わずそう呟くと、ディーン様が笑った。
「遊びに行くわけじゃないんだぞ」
「そ、そうですよね。でも、少しくらい見る時間はないのですか?」
「どうだろうな。聖女様の予定次第かもしれない」
「もしかしたら、街の方が案内してくださったりするかもしれませんよ」
「ああ。それはありえるかもな」
それからも私たちは、地図の上で街道や街の位置を確かめながら、各地の地理について学んだ。
あと何度、こうしてディーン様と向かい合って話せるのだろう。そう考えると、やっぱり寂しかった。
だからこそ、残された時間まで悲しい思い出にはしたくなかった。
私はいつものように笑って、ディーン様の話を聞いた。
◆
巡行の出発日。朝から王都は、華やかな空気に包まれていた。
大通りには聖女様の巡行を祝う旗や花飾りが掲げられ、大聖堂から王都中央の広場へ続く道には、すでに大勢の人が集まっている。
私も大聖堂前の広場までやってきたものの――。
「……全然、見えない……」
予想以上の人だかりだった。背伸びをしてみても、見えるのは前にいる人たちの頭ばかりだ。
「どうしよう……」
私は鞄の中へ手を入れ、スカーフに触れた。
刺繍が完成したのは、昨日の夜だった。思ったより時間がかかってしまい、結局、ディーン様に渡せないまま今日を迎えてしまったのだ。
出発前に渡したいと思ってここまで来たけれど、この人の多さでは近づくことすら難しそうだった。
「せめて……どなたかに預けられないかな……」
そう思ったとき、不意に後ろから肩を叩かれた。
「ひゃっ!?」
「そんな驚く?」
振り返ると、そこにいたのはユフィル様だった。
「やっぱり来てたな。こっち」
「え?」
ユフィル様はそれだけ言うと、私に手招きをして歩き出した。慌てて後を追う。
人混みを抜け、大聖堂の脇にある細い道へ入ると、表の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。
「あの、私が通ってもいいのですか?」
「大丈夫、大丈夫。身内枠ってことで」
「み、身内……」
「細かいことは気にしない」
大聖堂の裏手へ回ると、そこには巡行に同行する聖職者や騎士たちが集まっていた。
そして――。
「あ……」
その中に、ディーン様がいた。
いつもの騎士服ではなく、銀の装飾が施された礼装用の鎧を身につけている。腰には剣を佩き、黒髪も普段よりきちんと整えられていた。
ただ立っているだけなのに、いつも以上に凛々しく見える。
思わず口元に手を当てたまま、ぼんやりと見つめてしまった。
「アリア?」
こちらに気づいたディーン様が、驚いたように目を瞬かせた。
「どうしてここに」
「あ、あの……ユフィル様が……あれ?」
いつの間にか、ユフィル様はずいぶん離れたところまで移動していた。こちらを見て、にやにやしながら手を振っている。
「……ユフィルのやつ」
ディーン様は小さくため息をついた。
「すみません。出発前でお忙しいのに……」
「いや。来てくれて嬉しい」
「……っ」
胸が跳ねたのを誤魔化すように、私は慌てて鞄の中を探った。
「あ、あの……お渡ししたいものがあって……」
取り出したスカーフを、そっと差し出す。
「私が刺繍しました。聖樹の葉は、旅の安全を願うものだと本で読んだので……巡行が無事に終わりますように」
「私にか……」
ディーン様はスカーフを見つめ、それから受け取った。
「ありがとう。大切にする」
嬉しくて、思わず顔が綻んだ。
そのときだった。
「あら。そんなものがなくても、大丈夫ですのに」
澄んだ声が聞こえた。




