第2話
のろのろとした足取りで屋敷の門をくぐった。
かつては名家と呼ばれた我が家も、今では見る影もない。外壁はところどころひび割れ、庭も最低限の手入れしかされていなかった。
父は以前、王宮で役職を得ていたものの、数年前にその座を失っていた。本来なら領地へ戻り、傾きかけた領地を立て直すべきなのだろう。
それでも父は、家が落ちぶれたと認めたくなかったのか、それとも跡取りである姉によい縁談を得るためなのか、王都を離れようとはしなかった。母もまた、収入が減ってなお、姉の社交にかけるお金だけは惜しまなかった。
屋敷へ入っても、使用人たちは私に見向きもしない。いつもなら少しくらい寂しく思うのに、今日ばかりはありがたかった。
私はそのまま二階へ上がり、屋敷の北側にある自室へ入った。日当たりが悪く湿っぽい、小さな部屋だ。家具も机と椅子、それに古いベッドくらいしかない。
扉を閉めるなり、私はベッドへ倒れ込んだ。
「……ディーン様……」
枕に顔を埋めると、涙がまた溢れてきた。
――初めてディーン様を見た日のことを思い出した。
王立図書館へ通い始めて、まだ間もない頃だった。
図書館へ向かう途中には、王都を守る騎士団の訓練場がある。何気なくそちらを見たとき、一人の騎士が目に入った。
短く整えられた黒髪に、きりっとした青い瞳。背が高く、剣を構える姿は凛々しくて、こんなに素敵な人がいるんだと、私は思わず足を止めてしまった。
それから図書館へ通うたび、つい彼の姿を探すようになった。剣の稽古ではいつも相手を圧倒していた。それなのに威張ったところはなく、年下の騎士にも礼儀正しく接している。
知れば知るほど、好きになった。
ディーン様は女性からも人気があった。訓練が終わる頃になると、騎士たちへの差し入れだと言って、菓子や飲み物を持ってくる若い女性や令嬢たちの姿をよく見かけた。
中には、訓練場から出てきたディーン様に声をかけ、楽しそうに話している可愛らしい令嬢もいた。そんな姿を見るたび、羨ましいと思った。
私には差し入れを用意するお金もなければ、あんなふうに堂々と声をかけられる華やかさもない。だからいつも、遠くから見ているだけだった。
そんなある日、図書館でディーン様を見かけた。それだけで息が止まりそうになったのに、目が合った。
「君、よくここに来ているな」
「……えっ!?」
まさか私のことを知っているなんて思わなかった。
「訓練場の前を通るだろう。図書館へ通う令嬢は珍しいから、覚えていた」
「そ、そうだったんですね……」
顔が熱くなった。
理由が理由なだけに、勉強していることを知られるのは恥ずかしかった。それでも、ディーン様が私のことを覚えていてくれたのが嬉しくて仕方なかった。
すっかり舞い上がってしまった私は、聞かれてもいないのに、辺境伯のもとへ嫁ぐために勉強しているのだと話してしまった。
ディーン様は笑うことなく、黙って私の話を聞いてくれた。
そして次に図書館で会ったとき、前置きもなく私の向かいへ座った。
「今日は何を勉強している?」
それから、ディーン様は私に勉強を教えてくれるようになった。
「ちょっと、新しい髪飾りは!? 今日のために買ったって言ってたでしょう!」
廊下の向こうから姉ジゼルの甲高い声が響き、私はびくりと顔を上げた。
姉はどうやら、今日も夜会へ出かけるらしい。夜会へ出るたび、姉のドレスや装飾品は増えていく。家が傾いた今でも、それだけは変わらなかった。
以前、一度だけ母に尋ねたことがある。
『……こんなに買って、大丈夫なのですか?』
それが父の耳に入った。
『娘の分際で、家の金に口を出すな! 教養もないお前が余計な心配をする必要はない!』
その日の夕食を抜かれてから、私は二度と何も言わなくなった。
「……」
私はもう一度、枕へ顔を埋めた。
ディーン様に勉強を教えてもらうようになって、しばらくした頃、ユフィル様とも知り合った。
ユフィル様はときどき図書館へ顔を出し、私たちの勉強に混ざっては、ディーン様をからかったり、私に王宮の話を聞かせてくれたりした。
ユフィル様が間に入るようになってから、私たちは少しずつ、自分のことも話すようになった。
ディーン様は地方貴族の次男として生まれ、家を出て王都へやってきて、自分の力で騎士になったという。
「こいつ、騎士団じゃかなりの出世頭なんだよ」
ある日、ユフィル様がそんなことを教えてくれた。
「家柄や後ろ盾がものを言うことも多いのに、こいつはほとんど自力でここまで来たんだ」
そう言って、ユフィル様が肘でディーン様の腕をつつく。
「な?」
「……余計なことを言うな」
すごい人だったんだ。
改めて感心してディーン様を見つめていると、なぜか彼はわずかに視線を逸らした。
「それにしても、騎士の方は剣だけではなく、勉強もできなければならないのですね……」
するとディーン様は、少し考えてから首を振った。
「いや、ここまでは必要ない」
「そうなのですか?」
「ああ。だが任務で各地へ行けば、地理を知らなければ困る。報告書を書くにも文章力はいる。覚えておいて損はない」
「なるほど……」
「それに、知っていればできる仕事が増えるからな」
剣が強いだけでもすごいのに、そんなことまで自分で勉強しているなんて。
感心していると、ディーン様が私を見た。
「君も同じだ」
「? 何がですか?」
「今、学んでいるだろう。知識を身につければ、できることは増える」
「……できること、ですか?」
「ああ。騎士だって、剣だけでは任される仕事に限りがある。読み書きや計算、地理や歴史を知っていれば、それだけ任される仕事も増える」
その言葉に、私は目を瞬いた。
今まで両親からは、
『アリアはジゼルと違って華もなければ、可愛げもない。せめて嫁いで、少しは家の役に立ちなさい』
ずっと、そう言われてきたから。
「……私でも、選べるのでしょうか?」
結婚以外の道を。
恐る恐る尋ねると、ユフィル様がふっと笑った。ディーン様も、少しだけ目を細める。
「君次第だ」
あのときの言葉を思い出しながら、私はベッドの上のクッションをぎゅっと抱きしめた。
あの方が、私に初めて希望を与えてくれた。
だから私は勉強した。いつか自分で働いて、自分の人生を選べるようになるために。
それなのに――。
「……駄目よ、アリア。せっかくのおめでたいことなのだから」
自分に言い聞かせ、ゆっくりと起き上がった。
ディーン様に教えてもらったことを、無駄にしてはいけない。ちゃんと仕事を見つけて、自分の力で生きられるようになる。
きっとそれが、一番の恩返しだ。
でも、三年も離れてしまう。その前に、今の私にも何かできることはないだろうか。
「……あ、そうだ」
私はベッドから降りると、裁縫箱を取り出した。
裁縫は得意だった。姉のお下がりのドレスを手直しするのも、普段着に刺繍を入れるのも、ずっと自分でやってきた。
引き出しの奥を探していると、一枚のスカーフが見つかった。
艶のある、深いワインレッド。
以前、姉が買ったものの、「色が好みじゃない」と私に押しつけてきたものだけれど、落ち着いた色合いはディーン様にもよく似合いそうだった。
「これくらいしかできないけど……」
巡行の道中で、ディーン様を守ってくれますように。
そんな願いを込めて、幸運を意味する葉の模様を縫うことにした。
滲む涙を何度も拭いながら、私は針を動かし続けた。




