第1話
私は、決して恵まれた環境にいたわけではない。
両親は美しい姉ばかりを可愛がり、私は屋敷の片隅に忘れられたような扱いを受けていた。そして婚約相手としてあてがわれたのは、若い令嬢を妻に望んでいるという、一回り年上の辺境伯だった。
――それでも私は今、とても幸せだった。
「全部埋められました。どうでしょうか?」
向かいに座っているディーン・レイモンド様が、私から紙を受け取った。
「……ここが間違っている。ローデン地方は南部だ」
「あ、本当だ。葡萄の産地でしたね。うう、また同じ間違いをしているような……」
「あの辺りは地名が似ているからな」
「ディーン様は、よく覚えられますね」
「以前、任務で行ったことがある」
「えっ、こんなに遠くまで行かれるんですか?」
「騎士だからな」
週に一度、午後の二、三時間。王立図書館でディーン様に勉強を教えてもらう。
私は、この時間が一番好きだった。
やがて時間になり、私は名残惜しく思いながら机の上を片づけ始めた。
「あ、そうだ。ディーン様。この間、職業斡旋所へ行ってみたんですけど……駄目でした」
「そうか」
「やっぱり、身元保証人がいないのが難しいみたいで」
私が仕事を探していることを、両親は知らない。
私に与えられている勉強の時間も、本来は辺境伯の妻となるための準備のためだ。
両親からは、嫁いだ先で恥をかかない程度の教養くらい身につけておけと言われ、王立図書館へ通うことを許されている。
けれど私は、その時間を使ってディーン様に勉強を教えてもらい、家を出て働くための準備をしていた。
「やっぱり、地方まで探しに行った方がいいのかな……」
「やめておけ。慣れない土地で君一人なんて危険だ」
「うう……ですよね」
「もう少しここで頑張れ」
「はい……」
結婚まで、あと一年しかない。
本当ならもっと焦らなければならないのに、ディーン様に心配してもらえた。それだけで、胸が弾んでしまう。
「王宮女官の募集には出したか?」
「あ……いえ、まだです」
「出しておけ」
「ですが王宮ともなると、それなりの家からの推薦がないと難しいのでは……」
「それでもだ。出さなければ始まらない」
「……わかりました」
そのときだった。
「あー、いたいた」
図書館には似つかわしくない軽い声に振り返る。
そこにいたのは、王宮で文官をしているユフィル様だった。
ディーン様の友人で、いつも軽い調子で話す人だけれど、何かと私のことも気にかけてくれる優しい人だ。
「こんにちは、ユフィル様」
「アリア嬢、こんにちは。今日も勉強、頑張ってるみたいだね」
「何しに来た」
「ひどいなあ。わざわざお前に報告に来てやったのに」
そう言って笑っていたユフィル様が、ふっと表情を引き締めた。
「あれ、お前に決まったぞ」
「! 本当か」
「ああ。……よかったな」
あれって、なんだろう。
首を傾げていると、ユフィル様が私を見た。
「こいつ、聖女様の巡行に同行する騎士に決まったんだ」
「えっ!」
聖女様の巡行なら、私も勉強して知っていた。
聖女様が修行の一環として国内各地の神殿を巡り、人々に祝福を授ける。その道中には王家や神殿から選ばれた者たちが同行し、護衛を務める騎士もまた、優秀な者しか選ばれないという。
「おめでとうございます、ディーン様……!」
やっぱり、ディーン様はすごい。
嬉しくなって彼を見つめていると、なぜかユフィル様の顔が少し曇った。
「……まあ、騎士としては、とんでもない名誉なんだけどな」
「?」
「その巡行、全部回って帰ってくるまで三年くらいかかるんだ」
「……え?」
三年?
私は目を見開いたまま、ディーン様を見た。
けれどディーン様は私を見なかった。
ただ、何かを考えるように、窓の外へ視線を向けていた。
◆
夕暮れの道を、ディーン様と二人で歩く。
いつも、特別な会話をするわけではない。何も話さず、ただ並んで歩くだけの日も多かったけれど、それだけで嬉しい時間だった。
なのに今日は、胸の中がからっぽだった。
「……すまないな」
「え?」
「勉強を教えるのが、中途半端になってしまった。君が就職できるまで見届けたかったんだが」
「そんな、ディーン様にはこれまで十分助けていただきましたから!」
慌てて首を振る。
「おかげで私、前よりずっとできることが増えました」
「そうだな」
ディーン様が少しだけ笑った。
ときおり見せてくれる、この笑顔が好きだった。
「最初は簡単な計算にも、ずいぶん時間がかかっていた」
「……そうでしたね」
「礼節も危なかったな」
「わ、忘れてください……!」
「だが、本当によく頑張った」
「……っ」
不意にそんなことを言われて、泣きそうになる。
私は慌てて笑った。
「ディーン様が戻られる頃には、私、ちゃんと仕事を見つけて、独り立ちしてみせますね」
できるだけ明るく言った。
するとディーン様が足を止め、こちらを見た。
「必ず、あの図書館で勉強を続けるように」
「……はい」
「最後まで粘れ。私も、出発まではできる限り見る」
いつになく強い言い方だった。
私は小さくうなずいた。
「……頑張ります」
それからまた、二人で歩いた。
いつものように、ディーン様は私の家が見えるぎりぎりのところまで送ってくれた。
「今日も、ありがとうございました」
「ああ。では、ここで」
「……お気をつけて」
ディーン様が背を向ける。
その背中が夕暮れの向こうへ遠ざかっていくのを、私はいつまでも見送っていた。
「……っ」
とうとう堪えきれなくなって、涙が頬を伝った。




