第10話
王宮には、未婚の女官たちが暮らす宿舎があった。
私に与えられたのは、ベッドと机、衣装棚だけの小さな一人部屋だった。
「わぁ……明るい」
窓を開けると、明るい日差しが差し込んでくる。
窓の向こうには王宮の庭園の一角と、その先に広がる王都の屋根が見えた。
「ここが、今日から私の部屋……」
湿った匂いもしない。
実家で使っていた北側の部屋とは全然違う。
翌朝は、差し込む朝日の中で目を覚ました。それだけで、いつもよりずっと気持ちよく起きられた。
王宮からは、今回の件について正式に感謝状と報奨金もいただいた。
聖女様と巡行団に関する虚偽の噂を見抜き、調査のきっかけを作った功績によるものだという。
金額を見たときは、何度も桁を数えてしまった。
「……これ、本当に全部、私のお金なの……?」
生まれて初めて、自分で自由に使えるお金を持った。
「どうしよう……うーん……」
散々悩んだ末、最初に使ったのはワインだった。
「……なんで俺?」
「いつもお世話になっていますから」
私はユフィル様へ、買ってきたワインを差し出した。
「ローデン地方のワインです。王都でも評判のよいものですよね?」
「いや、むしろ今回の件はこっちが助けられたというか……これ、俺がもらっていいの?」
「もちろんです」
「……本当に?」
「?」
なぜそんなに困った顔をするのだろう。
結局、ユフィル様はぶつぶつ言いながらも受け取ってくれた。
公爵様にも、お世話になったお礼として品を贈った。
すると、受け取った公爵様はまじまじと私を見た。
「君、本当にまともな令嬢教育を受けていなかったのか?」
「え?」
「いや。こういうところは教育というより、本人の性格か」
何やら一人で納得されてしまった。
それからようやく、自分のための買い物をした。
選んだのは、小さな髪飾りだった。
銀細工の花の中心に、澄んだ青い石が一粒だけ嵌められている。その色を見た瞬間、ディーン様の瞳を思い出して、なんと値段も見ずに購入してしまった。
生まれて初めて、自分で選んだ髪飾りだった。
「……似合うかな」
鏡の前で髪に飾り、何度も角度を変えて眺めた。
そして、もう一つ。
私は毎朝、新聞を買うようになった。
「もうミレアを出たのね……」
聖女様がどこの神殿を訪れたのか。
巡行団は今、どこにいるのか。
怪我人は出ていないか。
小さな記事でも見逃さないように、毎日欠かさず目を通した。
◆
女官の仕事は、最初から何でもできたわけではない。
王宮で使われる書類の形式を覚えたり、各部署へ文書を届けたり、資料を分類したり。
間違えて先輩女官に直されることもあった。
それでも、ディーン様やユフィル様から教えてもらったことが、仕事の中で役に立った。
「アリア、この資料まとめたの?」
「はい。分かりにくかったでしょうか?」
「いいえ。見やすいわね。この形式、次からも使わせてもらおうかしら」
「本当ですか?」
そんなふうに褒めてもらえるたび、胸がくすぐったくなった。
働き始めてしばらくすると、身体にも変化が出てきた。
王宮では毎日きちんと食事が出る。ふわふわのパンに温かいスープ、肉も、魚も食べられる。
気づけば以前より頬に丸みが出て、先輩女官から、
「アリア、最近ずいぶん顔色がよくなったわね」
と言われるようになった。
「会うたびに健康になってるわね」
ソフィア様にも、私の顔をまじまじと見ながらそう言われた。
公爵家を出てからも、ソフィア様や公爵夫人との交流は続いていた。
「今度、南区にある仕立て屋を紹介してあげる」
「ええっ……お高いのでは……」
「そこは良心的よ。予算に合わせてくれるし。それに、身なりは大事よ。そろそろ声をかけられることも増えるでしょうし」
「……誰からですか?」
そう尋ねると、公爵夫人とソフィア様が同時に笑った。
そして数日後。
「今度の休日、もしご都合がよろしければ、王宮近くの茶房へご一緒しませんか?」
同じ部署で働く若い文官に、突然そう言われた。
「え? 私とですか?」
「ほかに誰がいるんです」
笑われてしまった。
そんなふうに誘われた経験がなかったので、どう答えればいいのか分からない。
結局、そのときは慌てて断ってしまった。
それからも、ほかの部署の人から、ときどき食事や観劇に誘われることがあった。
私はそのたびに驚いた。
両親からずっと、姉と違って華もなく、誰からも選ばれない人間なのだと言われ続けていたから。
「最近、若い文官に声をかけられたみたいだな」
ある日、ユフィル様からそう言われた。
「ああ……はい」
「いや、俺が止める権利もないし、ディーンもおそらくそんなことは望まないだろう。だから――」
「ユフィル様」
私はその言葉を遮った。
「覚えていますか? 前に、観劇の話をしたときのことを」
以前、図書館で勉強していたとき、ユフィル様が観た芝居について楽しそうに話していたことがあり、私はつい夢中になって話を聞いていた。
『……君も観劇に興味があるのか?』
ディーン様に尋ねられ、
『え? あ、はい……見たことがないので……』
『分かった』
『……?』
『仕事が決まったら、連れて行こう』
『! ほ、本当ですか!?』
思わず身を乗り出した私に、ディーン様の方が少し驚いていた。
あのときのことを思い出しながら、私は言った。
「誰かに誘われても、あのときほど嬉しいと思うことはないんです」
「そっか……」
ユフィル様は、それ以上何も言わなかった。
王宮で働き始めてから二年近い月日が過ぎた頃、実家の話が時折耳に入るようになった。
姉とグランヴィル様の婚約が白紙になったあと、姉には以前のような縁談が来なくなったらしい。
あの夜会で、王太子殿下に意見した私へ姉が詰め寄っていたことも、多くの人に見られていた。
さらに、今回の件で私が王家から功績を認められたことで、我が家がこれまで私をどのように扱っていたのかまで知られるようになったという。
それまで姉の周りに集まっていた人たちも、以前ほど寄ってこなくなったらしい。
そしてある日、王宮の廊下を歩いていると、後ろから話し声が聞こえてきた。
「ベルフォード伯爵家、とうとう王都の屋敷を手放すらしいわよ」
「まあ。やっぱり?」
「もともと家計が苦しかったみたい。今後は領地へ戻るんですって」
一瞬、足が止まりそうになった。
けれど、私はそのまま歩き続けた。
◆
夜、自室で手紙を開く。
『私のことは忘れるように』
何度読んだか分からないその文字を、指先でそっとなぞった。
「……あと半年」
巡行が終わるまで。
机の上には、王国の地図が広げてある。
新聞で巡行団の到着が報じられるたび、その土地を指でなぞった。
「……無事に、戻られますように」
宿舎の窓辺に立ち、いつものように手を組む。
「どうか、巡行団の皆様をお守りください」
そして最後に、もう一つだけ願う。
「……ディーン様を無事に王都へ帰してください」
神のご加護がありますように。




