第八話 汐の店
翌朝、澄を訪ねる前に、惣介はもう一度汐の店に寄った。
昨日聞けなかったことがあった。
一つだけ、確かめたかった。
――――――
戸を叩くと、すぐに汐が出てきた。
惣介を見た。驚かなかった。
「また来ましたね」汐は言った。
「少しだけいいですか」
汐は頷いた。店に通した。
――――――
座ると、惣介は直接聞いた。
「龍馬さんは、黒船商会のことをいつ頃から知っていたんですか」
汐はしばらく黙った。
「最初に気づいたのは、私です」汐は静かに言った。「港の様子がおかしくなり始めた時、英国人が港の図を欲しがっていた。父に売るなと言いました」
「お父さんに」
「ええ」汐は窓の外を見た。「父は石炭商でした。港の水深を誰より知っていた。だから狙われた」
惣介は黙って聞いた。
「龍馬さんに話したのは、その後です」汐は続けた。「龍馬さんは最初、笑って流しました」
「笑って」
「まだ見えていなかったから」汐は静かに言った。「でもその後、自分の目で確かめて、分かった。私が言っていたことの意味が」
「それが帳簿に繋がった」
「ええ」
――――――
部屋が静かになった。
波止場の音が遠くから聞こえた。
「お父さんは今」惣介は聞きかけて、止まった。
汐の表情を見た。
聞かなくても分かった。
「すみません」惣介は言った。
「いいんです」汐は言った。「父は港が好きでした。最後まで、港を見ていました」
それだけだった。
惣介はそれ以上聞かなかった。
――――――
立ち上がりかけた時、汐が言った。
「橘澄さんに会いましたか」
「昨日、会いました」
「どう思いましたか」
惣介は少し考えた。「信頼できる人だと思いました。慎重で、嘘をつかない」
汐は頷いた。「あの人は、龍馬さんが信頼していた数少ない人間の一人です」
「あなたも、その一人ですね」
汐は少し間を置いた。
「私は」汐は言った。「龍馬さんの仕組みを止める役でした」
「止める役」
「龍馬さんが数字だけで見始めた時、港の人間の顔を思い出させる役です」汐は窓の外を見た。「それだけです」
惣介は汐を見た。
それだけです、という言い方が引っかかった。
だが聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
――――――
店を出ると、朝の長崎の空気が冷たかった。
惣介は波止場を歩きながら、汐の言葉を反芻した。
「龍馬さんが数字だけで見始めた時、港の人間の顔を思い出させる役です」
龍馬にも、そういう瞬間があったのか。
数字だけで世界を見始める瞬間が。
帳簿係の惣介には、その怖さが分かった。
数字は便利だ。全部を数字に置き換えれば、判断が速くなる。感情が入らなくなる。
でもその時、人間が消える。
汐は龍馬の中に人間を残す役だった。
では惣介の中に人間を残す役は、誰なのか。
まだ分からなかった。
――――――
澄の事務所に着いた。
戸を叩くと、すぐに開いた。
澄は惣介を見て、昨日と同じ落ち着いた目で言った。
「来ましたね」
「来ました」
「信頼することにしました」澄は言った。「入ってください」
惣介は中に入った。
澄は文机の前に座った。惣介も座った。
「別冊の在処を話します」澄は言った。「その前に、一つだけ聞かせてください」
「なんですか」
「別冊を手に入れて、どうするつもりですか」
惣介は少し間を置いた。
「まだ決めていません」惣介は正直に言った。「でも燃やすつもりはありません」
「なぜですか」
「龍馬さんが本気で作ったものを、中身も見ずに燃やすことはできません」
澄は惣介を見た。
しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「別冊は、函館にあります」
――――――
函館。
惣介は地図を思い浮かべた。日本の北の果て。蝦夷地の入り口。
「なぜ函館なんですか」
「龍馬さんが、古い協力者に預けました」澄は言った。「長崎でも京都でもない場所に置く必要があった。狙われにくい場所に」
「その協力者は今も函館にいますか」
「いるはずです」澄は言った。「ただ」
「ただ」
「函館は今、きな臭い」澄は言った。「榎本武揚の勢力が蝦夷地を掌握しつつある。新政府軍との衝突が近い」
「その混乱の中に、飛び込むんですか」
「別冊を手に入れたいなら、そうなります」澄は静かに言った。「私も一緒に行きます」
惣介は澄を見た。
「なぜですか」
「龍馬さんに頼まれていました」澄は言った。「別冊を取りに来る人間がいたら、案内しろ、と」
「龍馬さんが」
「ええ」澄は静かに言った。「龍馬さんは、自分が死ぬかもしれないと思っていたわけではないと思います。ただ、万が一の時のために、と言っていました」
部屋が静かになった。
龍馬は万が一を想定していた。
その万が一が、現実になった。
――――――
「もう一つ」澄は言った。「函館に向かうなら、気をつけなければならない人間がいます」
「神谷弦四郎ですか」
澄は少し驚いた顔をした。
「陸奥さんから聞きました」惣介は言った。
「そうですか」澄は静かに言った。「神谷は、私の過去と接点があります」
「どういう接点ですか」
澄はしばらく黙った。
「長崎で、同じ英国商館で働いていたことがあります」澄は言った。「当時の神谷は通詞でした。優秀でした。でも途中から、別の仕事を始めた」
「別の仕事」
「情報を売る仕事です」澄は言った。「誰にでも。値段が合えば」
「今は黒船商会と繋がっているんですか」
「繋がっています」澄は言った。「ただ、神谷は一つの組織に忠誠を誓う人間ではありません。今は黒船商会でも、明日は別の側にいるかもしれない」
「だから怖い」
「だから怖い」澄は繰り返した。
――――――
惣介は立ち上がった。
「いつ出発できますか」
「三日後に、函館行きの船があります」澄は言った。「それに乗りましょう」
「分かりました」
惣介は戸口に向かいかけて、振り返った。
「澄さん」惣介は言った。「龍馬さんは、あなたにとってどういう人でしたか」
澄はしばらく黙った。
「世界の見方を変えた人です」澄は静かに言った。「それだけです」
それだけです、という言い方が、汐の言い方に似ていた。
惣介は何も言わなかった。
戸を開けた。
路地に出た。
三日後、函館へ向かう。
龍馬の設計図が、そこにある。




