第二巻 長崎の設計図(序盤)第七話 橘澄
橘澄の居場所は、汐が教えてくれた。
長崎の英国商館から少し離れた路地に、小さな通詞の事務所があった。表に看板はなかった。口伝えで客が来る場所だった。
惣介は路地に入った。
古い建物だった。石造りではなく、日本建ての家だった。外国商館が並ぶ地区の中で、一軒だけ違う空気をしていた。
――――――
戸を叩いた。
「どうぞ」と声がした。
中に入った。
六畳ほどの部屋だった。文机に書類が積まれていた。壁に地図が貼られていた。日本の地図と、アジアの地図が並んでいた。
女が立っていた。
二十六歳か二十七歳か。細身だった。着物は地味だったが、姿勢が良かった。目が落ち着いていた。惣介を見て、すぐに言った。
「海援隊の方ですね」
惣介は少し驚いた。汐も同じことを言った。
「目で分かるんですか」惣介は言った。
「言葉で分かります」澄は言った。「土佐の訛が少し残っています」
惣介は苦笑した。
――――――
座った。
澄が茶を出した。
「陸奥宗光さんから聞いてきました」惣介は言った。
澄は頷いた。「知っています。手紙が来ていました」
「手紙が」
「昨日届きました」澄は言った。「岡崎惣介という海援隊の帳簿係が長崎に向かっている。信頼できる男だ、と」
陸奥は先に動いていた。惣介が京都を出る前に、すでに手紙を送っていた。
さすがだと思った。そして少し怖かった。
――――――
「帳簿を持っています」惣介は言った。
「見せてください」
澄は帳簿を受け取った。
開いた。
ゆっくりと読んだ。数字を追った。港の名前を確かめた。品目の記号を見た。
惣介は澄の目を見た。
読める。この女は帳簿が読める。数字の流れを追っている。
三十分ほどかかった。
澄は帳簿を閉じた。
「黒船商会の取引記録ですね」澄は静かに言った。「品目の記号は、甲が小銃、乙が弾薬、丙が大砲、丁が軍艦の部品です」
惣介は止まった。
「なぜ分かるんですか」
「以前、似た帳簿を見たことがあります」澄は言った。「通詞の仕事で、英国商館の書類を扱ったことがある。同じ記号の使い方でした」
「黒船商会と、英国商館は繋がっているんですか」
「繋がっています」澄は言った。「ただ、直接ではない。間に何人か挟んでいます。それが黒船商会のやり方です」
――――――
惣介は澄を見た。
「別冊の存在を知っていますか」
澄は少し間を置いた。
「知っています」
「龍馬さんの設計図が書かれていると聞きました」
「ええ」
「在処を知っていますか」
澄はしばらく黙った。
窓の外を見た。路地が見えた。人が行き来していた。
「少し時間をください」澄は言った。「あなたのことを、もう少し知りたい」
「何を知りたいんですか」
「なぜ動いているのか」澄は惣介を見た。「陸奥さんに言われたからですか。それとも、自分で動きたいからですか」
惣介は少し考えた。
「最初は陸奥さんに言われました」惣介は言った。「でも今は、自分で動きたいと思っています」
「なぜですか」
「龍馬さんが何を見ていたのか、知りたいからです」惣介は言った。「帳簿係として二年間傍にいたのに、本当のことを何も知らなかった。それが悔しい」
澄は惣介を見た。
しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「龍馬さんには、会ったことがあります」
――――――
澄が話し始めた。
二年前、龍馬が長崎に来た時のことだった。英国商館との交渉に通詞が必要で、澄が呼ばれた。
「龍馬さんは、交渉より相手の観察に時間を使っていました」澄は言った。「商館の男が何を見て、何を書き留めているか。それだけを見ていた」
「何か気づいたことがあったんですか」
「後で龍馬さんに聞きました」澄は言った。「すると龍馬さんはこう言いました。『あの男は荷より先に港を見とる』と」
惣介は止まった。
汐も同じことを言っていた。「英国人は、銃より先に港を見ます」
龍馬は長崎で、汐から聞いたことを、英国商館で自分の目で確かめていた。
「龍馬さんは、黒船商会の動きをいつから追っていたんですか」惣介は聞いた。
「少なくとも二年前からです」澄は言った。「でも本当はもっと前から、感じていたと思います」
――――――
夕方になっていた。
澄が立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう」澄は言った。「明日また来てください。話せることが、まだあります」
惣介は頷いた。立ち上がりながら言った。
「別冊の在処は」
「明日」澄は言った。「あなたを信頼できると判断したら、話します」
惣介は澄を見た。
この女は慎重だった。簡単には動かなかった。
だが嘘をついていなかった。
それだけで、今日は十分だと思った。
――――――
路地に出ると、夜の長崎の空気が冷たかった。
惣介は歩きながら思った。
龍馬は長崎で、汐と澄という二人の女から、世界の動きを学んでいた。
汐は港の現実を教えた。
澄は帳簿と言葉で世界を読んだ。
二人合わせて、龍馬の目になっていた。
そしてその目を、今度は惣介が引き継ごうとしていた。
波止場の汽笛が鳴った。
惣介は足を速めた。
明日また、澄を訪ねる。
龍馬が見ていた世界の続きが、少しずつ見えてきていた。




