表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Company ―龍馬が死んだあと―  作者: 八雲 海


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

第六話 長崎へ

長崎港に入った瞬間、匂いが変わった。


 潮と石炭と、何か甘いもの。


 惣介は船縁に立ち、近づく港を見た。


 蒸気船が並んでいた。煙突から黒い煙が上がっていた。波止場に荷役の男たちが動いていた。外国人の姿が見えた。背広姿の男たちが、手帳に何かを書きつけながら歩いていた。


 長崎には何度か来たことがあった。海援隊の仕事で。


 だが今日は違って見えた。


 知っている街なのに、知らない街に見えた。


――――――


 船が着いた。


 惣介は埠頭ふとうに降り立った。


 まず宿を取った。波止場から少し離れた、小さな宿だった。目立たない場所を選んだ。


 荷物を置いて、すぐに出た。


 陸奥に言われた順番を思い出した。橘澄より先に、汐に会え。


 帳簿に「汐」という名前があった。田所は「その女は最初から見えていた」と言った。陸奥は「龍馬を一番よく知っている」と言った。


 まず汐を探す。


――――――


 波止場沿いを歩いた。


 石炭商の店が並んでいた。小さな問屋とんや。倉庫。船具ふなぐを売る店。


 惣介は店の看板を一つ一つ確かめた。


 「汐」という名前の店を探した。


 三十分ほど歩いた頃、波止場の端に小さな店を見つけた。


 石炭商だった。


 表に看板が出ていた。「石炭問屋 汐」


 惣介は立ち止まった。


――――――


 戸を叩いた。


 しばらくして、女が出てきた。


 二十代後半。落ち着いた目をしていた。惣介を見た。何も言わなかった。


 惣介は口を開こうとした。


 その前に女が言った。


 「海援隊の方ですね」


 惣介は驚いた。「なぜ分かるんですか」


 「目です」女は言った。「龍馬さんの周りにいた人間の目をしています」


 惣介はその言葉の意味を考えた。龍馬の周りにいた人間の目。それがどんな目なのか、自分では分からなかった。


――――――


 店に上がった。


 汐が茶を出した。


 惣介は帳簿を出した。表紙を見せた。


 汐は帳簿を見た。表情が変わらなかった。ただ、少し目を細めた。


 「黒船商会ですね」汐は静かに言った。


 「知っていますか」


 「知っています」


 「龍馬さんから」


 「ええ」


 惣介は汐を見た。落ち着いていた。動じなかった。この女はこの帳簿を見て、何も驚かなかった。


 「龍馬さんが亡くなったことは」惣介は言った。


 「知っています」汐は言った。「長崎にも知らせが来ました」


 部屋が静かだった。


 波止場の音が、遠くから聞こえた。


――――――


 しばらくして、惣介は聞いた。


 「龍馬さんは、何を見ていたんですか」


 汐はしばらく黙った。


 窓の外を見た。波止場が見えた。蒸気船の煙が上がっていた。


 それから、静かに言った。


 「龍馬さんは、人が選べるようにしたかった」


 惣介は黙って聞いた。


 「港を選べる。航路こうろを選べる。商いの相手を選べる」汐は続けた。「どこの保険に入るかを選べる。それだけで、外国に飲まれずに済むと言っていました」


 「それが、設計図ですか」


 汐は惣介を見た。


 「設計図という言葉を、どこで聞きましたか」


 「陸奥さんから」


 汐は少し間を置いた。


 「別冊のことも、聞きましたか」


 「ええ」


 汐は窓の外を見た。


 「龍馬さんは、人が選べるようにしたかった」汐は繰り返した。「それだけは本当です」


 それだけだった。


 別冊のことは言わなかった。龍馬との関係も言わなかった。自分の気持ちも言わなかった。


 ただその一言だけを、静かに言った。


――――――


 惣介は茶を飲んだ。


 冷めていた。


 「一つだけ聞かせてください」惣介は言った。「龍馬さんは、本当に正しいことをしようとしていたと思いますか」


 汐はしばらく黙った。


 「正しいかどうかは、分かりません」汐は言った。「でも本気だったことは分かります」


 「それで、十分ですか」


 「十分です」汐は静かに言った。「本気でない人間の設計図は、誰の心にも残りません」


 惣介は汐を見た。


 この女は龍馬を知っていた。理屈ではなく、もっと深いところで。


 陸奥が「龍馬を一番よく知っている」と言った意味が、少し分かった気がした。


――――――


 帰り際、惣介は立ち上がりながら言った。


 「橘澄という通詞を訪ねるつもりです」


 汐は頷いた。「知っています。信頼できる人です」


 「何か、伝えることはありますか」


 汐はしばらく考えた。


 「惣介さん」汐は言った。


 「はい」


 「帳簿を持っているということは、狙われているということです」汐は静かに言った。「龍馬さんも、最後まで帳簿を手放さなかった」


 惣介は黙った。


 「気をつけてください」汐は言った。「龍馬さんの続きを、あなたに死なれては困ります」


 それだけだった。


 惣介は頭を下げた。


 店を出た。


――――――


 波止場の風が冷たかった。


 惣介は歩きながら、汐の言葉を反芻はんすうした。


 「本気でない人間の設計図は、誰の心にも残りません」


 龍馬の設計図は、汐の心に残っていた。


 陸奥の心にも残っていた。


 田所の心にも残っていた。


 そして今、惣介の心にも残り始めていた。


 蒸気船の汽笛が鳴った。


 どこかへ出発する船だった。


 惣介は港を見た。


 次は橘澄を訪ねる。


 龍馬が見ていたものの、続きを探す。


 波が来て、引いた。


 長崎の朝は、霧から始まる。


 惣介はその霧の中を、歩き始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ