第六話 長崎へ
長崎港に入った瞬間、匂いが変わった。
潮と石炭と、何か甘いもの。
惣介は船縁に立ち、近づく港を見た。
蒸気船が並んでいた。煙突から黒い煙が上がっていた。波止場に荷役の男たちが動いていた。外国人の姿が見えた。背広姿の男たちが、手帳に何かを書きつけながら歩いていた。
長崎には何度か来たことがあった。海援隊の仕事で。
だが今日は違って見えた。
知っている街なのに、知らない街に見えた。
――――――
船が着いた。
惣介は埠頭に降り立った。
まず宿を取った。波止場から少し離れた、小さな宿だった。目立たない場所を選んだ。
荷物を置いて、すぐに出た。
陸奥に言われた順番を思い出した。橘澄より先に、汐に会え。
帳簿に「汐」という名前があった。田所は「その女は最初から見えていた」と言った。陸奥は「龍馬を一番よく知っている」と言った。
まず汐を探す。
――――――
波止場沿いを歩いた。
石炭商の店が並んでいた。小さな問屋。倉庫。船具を売る店。
惣介は店の看板を一つ一つ確かめた。
「汐」という名前の店を探した。
三十分ほど歩いた頃、波止場の端に小さな店を見つけた。
石炭商だった。
表に看板が出ていた。「石炭問屋 汐」
惣介は立ち止まった。
――――――
戸を叩いた。
しばらくして、女が出てきた。
二十代後半。落ち着いた目をしていた。惣介を見た。何も言わなかった。
惣介は口を開こうとした。
その前に女が言った。
「海援隊の方ですね」
惣介は驚いた。「なぜ分かるんですか」
「目です」女は言った。「龍馬さんの周りにいた人間の目をしています」
惣介はその言葉の意味を考えた。龍馬の周りにいた人間の目。それがどんな目なのか、自分では分からなかった。
――――――
店に上がった。
汐が茶を出した。
惣介は帳簿を出した。表紙を見せた。
汐は帳簿を見た。表情が変わらなかった。ただ、少し目を細めた。
「黒船商会ですね」汐は静かに言った。
「知っていますか」
「知っています」
「龍馬さんから」
「ええ」
惣介は汐を見た。落ち着いていた。動じなかった。この女はこの帳簿を見て、何も驚かなかった。
「龍馬さんが亡くなったことは」惣介は言った。
「知っています」汐は言った。「長崎にも知らせが来ました」
部屋が静かだった。
波止場の音が、遠くから聞こえた。
――――――
しばらくして、惣介は聞いた。
「龍馬さんは、何を見ていたんですか」
汐はしばらく黙った。
窓の外を見た。波止場が見えた。蒸気船の煙が上がっていた。
それから、静かに言った。
「龍馬さんは、人が選べるようにしたかった」
惣介は黙って聞いた。
「港を選べる。航路を選べる。商いの相手を選べる」汐は続けた。「どこの保険に入るかを選べる。それだけで、外国に飲まれずに済むと言っていました」
「それが、設計図ですか」
汐は惣介を見た。
「設計図という言葉を、どこで聞きましたか」
「陸奥さんから」
汐は少し間を置いた。
「別冊のことも、聞きましたか」
「ええ」
汐は窓の外を見た。
「龍馬さんは、人が選べるようにしたかった」汐は繰り返した。「それだけは本当です」
それだけだった。
別冊のことは言わなかった。龍馬との関係も言わなかった。自分の気持ちも言わなかった。
ただその一言だけを、静かに言った。
――――――
惣介は茶を飲んだ。
冷めていた。
「一つだけ聞かせてください」惣介は言った。「龍馬さんは、本当に正しいことをしようとしていたと思いますか」
汐はしばらく黙った。
「正しいかどうかは、分かりません」汐は言った。「でも本気だったことは分かります」
「それで、十分ですか」
「十分です」汐は静かに言った。「本気でない人間の設計図は、誰の心にも残りません」
惣介は汐を見た。
この女は龍馬を知っていた。理屈ではなく、もっと深いところで。
陸奥が「龍馬を一番よく知っている」と言った意味が、少し分かった気がした。
――――――
帰り際、惣介は立ち上がりながら言った。
「橘澄という通詞を訪ねるつもりです」
汐は頷いた。「知っています。信頼できる人です」
「何か、伝えることはありますか」
汐はしばらく考えた。
「惣介さん」汐は言った。
「はい」
「帳簿を持っているということは、狙われているということです」汐は静かに言った。「龍馬さんも、最後まで帳簿を手放さなかった」
惣介は黙った。
「気をつけてください」汐は言った。「龍馬さんの続きを、あなたに死なれては困ります」
それだけだった。
惣介は頭を下げた。
店を出た。
――――――
波止場の風が冷たかった。
惣介は歩きながら、汐の言葉を反芻した。
「本気でない人間の設計図は、誰の心にも残りません」
龍馬の設計図は、汐の心に残っていた。
陸奥の心にも残っていた。
田所の心にも残っていた。
そして今、惣介の心にも残り始めていた。
蒸気船の汽笛が鳴った。
どこかへ出発する船だった。
惣介は港を見た。
次は橘澄を訪ねる。
龍馬が見ていたものの、続きを探す。
波が来て、引いた。
長崎の朝は、霧から始まる。
惣介はその霧の中を、歩き始めた。




