第五話 京都脱出
夜中に宿を出た。
荷物は最小限にした。着替えと、帳簿と、陸奥からもらった書状。それだけだった。
京都の夜は冷たかった。石畳が霜で白くなっていた。惣介は足音を殺して歩いた。
――――――
まず陸奥の宿に寄るつもりだった。
出発を告げようとした。
だが陸奥の宿の前に差し掛かった時、人影が見えた。
二人。宿の前に立っていた。動かなかった。見張っていた。
惣介は路地に身を潜めた。
陸奥の宿まで、狙われていた。
直接訪ねることはできなかった。
惣介は路地を引き返した。
――――――
船着き場まで歩いた。
夜明け前に長崎へ向かう船があることを、昨日のうちに調べていた。伏見から川船に乗り、大坂へ出る。大坂から長崎へ向かう廻船に乗り換える。
船着き場に着くと、すでに何人かの旅人が待っていた。商人風の男。僧侶。年老いた夫婦。
惣介はその中に混じって、暗がりに立った。
気配を探った。
尾行はなかった。
今のところは。
――――――
川船が動き始めた頃、夜が明けてきた。
淀川の水面が白く光った。
惣介は船縁に座り、京都の方角を見た。
龍馬が死んだ街が、遠ざかっていった。
二年間いた街だった。海援隊の仕事で長崎や神戸にも行ったが、京都が拠点だった。龍馬がいた場所だった。
もう戻れないかもしれないと思った。
いや、戻る必要がなくなるかもしれない。
帳簿の謎が解けた時、自分はどこにいるのか。まだ分からなかった。
――――――
大坂で一日待った。
廻船の出発は翌朝だった。
その間、惣介は大坂の両替商を一軒だけ訪ねた。
黒船商会の名前を出した。
番頭は顔色を変えた。「そこの話は、うちではできません」それだけ言って、奥に引っ込んだ。
惣介は店を出た。
黒船商会は大坂でも知られていた。そして誰もが口を閉じた。
それだけの組織だということだった。
――――――
翌朝、廻船に乗った。
船は大きかった。商人が多く乗っていた。荷物が山積みになっていた。
惣介は甲板の端に立ち、海を見た。
生まれて初めて、長距離の海路を一人で旅していた。
海援隊の仕事では、いつも誰かと一緒だった。龍馬がいた。先輩の隊士がいた。一人で判断することはなかった。
今は一人だった。
帳簿を持って、追われながら、長崎へ向かっていた。
自分が何をしようとしているのか、まだ半分しか分かっていなかった。
――――――
船が瀬戸内に入った頃、惣介は帳簿を開いた。
「汐」という名前をもう一度見た。
港が死んだことを最初から見えていた女。龍馬が信頼していた女。
だとすれば、汐という女は何者なのか。
惣介には分からなかった。
ただ、会わなければならないという確信だけがあった。
――――――
夕暮れ時、船が島影の多い海域に入った。
穏やかな海だった。
惣介は甲板で煙草を吸っている老商人の隣に座った。話しかけるつもりはなかった。ただ、一人でいると考えすぎた。
老商人が先に口を開いた。
「長崎まで行きなさるか」
「ええ」
「何の商売ですか」
「帳簿の仕事です」惣介は言った。
老商人は頷いた。「帳簿は大事じゃ。数字は嘘をつかん」
惣介は老商人を見た。
「でも」惣介は言った。「数字を読む人間が、嘘をつくことはあります」
老商人は少し笑った。「そりゃそうじゃ」
二人はしばらく黙って海を見た。
――――――
夜、惣介は船の中で横になった。
眠れなかった。
龍馬の顔を思い出した。
声をかけられた日のことを思い出した。「お前は数字が読める。それだけで十分じゃ」
龍馬はなぜ、帳簿係に惣介を選んだのか。
数字が読めるから、と言った。
でも本当は、別の理由があったのかもしれない。
帳簿の謎を、いつか誰かに解かせるつもりだったのかもしれない。
そんな気がした。
証拠はなかった。
でも龍馬という男は、先を読む人間だった。
惣介は目を閉じた。
波の音が聞こえた。
船は長崎へ向かっていた。
――――――
夜明け前、惣介は甲板に出た。
空が白み始めていた。
遠くに山が見えた。
長崎が近かった。
惣介は帳簿を懐で触った。
龍馬が残したものを、自分が運んでいる。
それだけは確かだった。
あとは長崎で分かる。
惣介は朝の海を見た。
波が来て、引いた。
繰り返していた。
止まらなかった。




