第三話 陸奥の忠告
翌朝、惣介は陸奥をもう一度訪ねた。
昨夜の話で終わりにするつもりだった。長崎へ行く。橘澄を訪ねる。それだけ決まれば十分だった。
だが眠れなかった。
帳簿の数字が頭から離れなかった。「黒船商会」という名前が離れなかった。そして陸奥が言った「設計図」という言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。
――――――
陸奥は部屋にいた。
昨夜と同じ姿勢で書状を読んでいた。惣介を見て、書状を置いた。
「来ると思っていた」陸奥は言った。
「黒船商会とは何ですか」惣介は座りながら言った。前置きなしだった。
陸奥は少し間を置いた。
「聞きたいか」
「帳簿を持っています。尾行されています。長崎へ行こうとしています」惣介は言った。「何も知らずに動くより、知って動いた方がいい」
陸奥は惣介を見た。
それから、静かに話し始めた。
――――――
「黒船商会は、表向きは貿易商社じゃ」陸奥は言った。「長崎に拠点を持っている。神戸にも横浜にも顔が利く」
「裏は」
「武器じゃ」陸奥は言った。「英国系の民間組織が後ろについている。東インド会社の流れを汲む連中じゃ」
惣介は帳簿を思い出した。品目の欄の記号。「甲」「乙」「丙」。武器の種類を指していたのかもしれなかった。
「龍馬さんは、それを調べていたんですか」
「調べていた」陸奥は言った。「だがそれだけじゃない」
「どういうことですか」
陸奥は窓の外を見た。
「龍馬は敵を調べながら、同時に別のものを設計していた」陸奥は言った。「黒船商会に対抗できる、日本独自の仕組みを」
「それが別冊ですか」
「そうじゃ」
――――――
部屋が静かになった。
惣介は帳簿を見た。数字の羅列。港の名前。上海という文字。
これは龍馬が敵を追いかけた記録だった。
そして別冊には、龍馬が作ろうとしたものが書かれている。
「なぜ龍馬さんは殺されたんですか」惣介は聞いた。
陸奥はしばらく黙った。
「理由は一つじゃないかもしれない」陸奥は言った。「だが設計図が関係している可能性はある」
「設計図が完成すれば、黒船商会の利権が脅かされる」
「そうじゃ」陸奥は言った。「そして新政府の中にも、その設計図を都合が悪いと思う人間がいる」
「新政府が」
「龍馬の設計は、国家主導ではなく民間主導じゃ」陸奥は静かに言った。「国が全部仕切りたい人間には、邪魔になる」
惣介は黙った。
龍馬は敵が多かった。外からも、内からも。
――――――
「一つ聞いていいですか」惣介は言った。
「なんじゃ」
「陸奥さんは、設計図を公開したいんですか。それとも燃やしたいんですか」
陸奥は惣介を見た。
少し間を置いて、言った。
「龍馬が決めることじゃった」陸奥は言った。「龍馬がいなくなった今、誰が決めるのか。儂には分からん」
「だから儂に行かせるんですか」
「お前が帳簿を見つけた」陸奥は言った。「龍馬がお前を帳簿係に選んだ。それだけの理由がある気がする」
惣介は陸奥を見た。
この男は全部知っている。でも全部は言わない。
それが惣介には少し怖かった。
――――――
立ち上がりかけた時、陸奥が言った。
「惣介」
「はい」
「長崎で、汐という女を知っているか」
惣介は止まった。
「帳簿に名前がありました」
「会いに行け」陸奥は言った。「橘澄より先に会え」
「なぜですか」
陸奥はしばらく黙った。
「その女が、龍馬を一番よく知っている」陸奥は静かに言った。「理由は聞くな。会えば分かる」
惣介は頷いた。
「もう一つ」陸奥は続けた。「長崎で、神谷弦四郎という男に気をつけろ」
「どんな男ですか」
「穏やかな男じゃ」陸奥は言った。「だから怖い」
それだけだった。
――――――
陸奥の宿を出ると、冬の京都の空気が冷たかった。
惣介は歩きながら、頭の中を整理した。
黒船商会。武器取引。東インド会社の流れを汲む組織。新政府の中の敵。設計図。汐。橘澄。神谷弦四郎。
全部が繋がっているはずだった。
だがまだ、何も見えていなかった。
惣介は空を見た。
今夜、京都を出る。
長崎へ向かう。
龍馬が何を見ていたのか。その答えを、自分の目で確かめる。
帳簿係の自分に、それができるかどうか。
まだ分からなかった。
でも動かなければ、何も分からないままだった。




