第二話 消えた別冊
帳簿を宿に持ち帰った惣介は、夜通し数字を読んだ。
燭台の灯りの中で、一行一行確かめた。
日付は慶応二年から三年にかけてのものだった。龍馬が海援隊を動かしていた時期と重なる。金額は大きかった。一回の取引で、惣介が一年かけて扱う帳簿の総額を超えるものもあった。
品目の欄は記号だった。「甲」「乙」「丙」。何を指しているのか分からない。
だが港の名前は具体的だった。長崎。神戸。横浜。そして時折、上海という文字が出てきた。
惣介は上海という文字を指で押さえた。
龍馬は上海に行ったことがあるのか。
知らなかった。
帳簿係として二年間龍馬の傍にいたが、龍馬が何を考え、どこへ行き、何を見ていたか——本当のことは何も知らなかった気がした。
――――――
夜明け近く、惣介は帳簿の最後のページを再度確かめた。
「別冊・在」
この書き込みの横に、もう一行あった。見落としていた。小さな字だった。
「汐」
それだけだった。
人の名前か。場所の名前か。それとも別の何かか。
惣介には分からなかった。
――――――
翌朝、惣介は近江屋に戻った。
もう一度、部屋を調べるためだった。
だが近江屋の主人に止められた。
「昨日、別の方が来られました」主人は言った。「荷物の残りを引き取りたいと」
「誰ですか」
「海援隊の方だとおっしゃっていました。名前は……」主人は首を傾げた。「名乗らなかった」
「どんな人間でしたか」
「四十がらみ。背が高い。目が鋭い方でした」
村田ではなかった。
惣介は礼を言って、近江屋を出た。
――――――
街を歩きながら、頭の中で整理した。
別冊は龍馬の死後に消えた。持ち去った人間は海援隊の者を名乗った。しかし村田ではない。
海援隊の中に、別冊を狙っていた人間がいる。
あるいは——海援隊以外の人間が、海援隊を名乗った。
どちらにしても、別冊には価値がある。誰かが必要としている。
惣介は懐の帳簿を触った。
これを持っていることが、危ないかもしれない。
そう思った瞬間、背後に気配を感じた。
――――――
振り返った。
路地に人が溢れていた。普通の朝の京都だった。行商人。町人。侍。誰も惣介を見ていなかった。
だが気配は消えなかった。
惣介は歩き続けた。ゆっくりと。遠回りをした。角を曲がった。路地に入った。
気配がついてきた。
一人ではなかった。少なくとも二人いた。
惣介は走らなかった。走れば確認される。ゆっくり歩きながら、頭を動かした。
宿には戻れない。帳簿がある。
陸奥宗光。
その名前が浮かんだ。海援隊の兄貴分。龍馬が信頼していた男。今は京都にいるはずだった。
――――――
陸奥の宿を訪ねると、すぐに通された。
陸奥は部屋で書状を読んでいた。三十前後。細身。目が鋭かった。惣介を見て、書状を伏せた。
「惣介か」陸奥は言った。「顔色が悪いぞ」
「尾行されています」惣介は言った。
陸奥は少し間を置いた。それから立ち上がり、窓の外を見た。
「何人じゃ」
「二人だと思います」
陸奥は窓を閉めた。惣介を見た。「何かを持っているな」
惣介は帳簿を出した。
――――――
陸奥は帳簿を受け取った。
表紙を見た瞬間、表情が変わった。
「黒船商会」陸奥は静かに繰り返した。「どこで手に入れた」
「龍馬さんの遺品の中にありました」
陸奥はしばらく帳簿を見ていた。開かなかった。ただ表紙を見ていた。
それから惣介に返した。
「捨てろ」陸奥は言った。
「村田さんも同じことを言いました」
「だったら二人が同じことを言っている」陸奥は言った。「聞け」
「なぜですか」
陸奥は少し間を置いた。
「それを持っているだけで、命が危ない」
「もう尾行されています」惣介は言った。「遅いですよ」
陸奥は惣介を見た。
しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。笑い方が龍馬に少し似ていた。
「龍馬が帳簿係に選んだ男じゃ」陸奥は言った。「数字だけじゃないな」
――――――
陸奥は書状を一枚取り出した。
「長崎へ行け」陸奥は言った。「そこに橘澄という通詞がいる。女だ。英語と中国語が話せる。龍馬とも面識がある」
「その人が、別冊の在処を知っているんですか」
「知っているかもしれない」陸奥は言った。「知らないかもしれない。だが龍馬が信頼していた人間の一人だ」
「なぜ教えてくれるんですか」
陸奥はしばらく黙った。
「龍馬が死んだ」陸奥は静かに言った。「設計図も一緒に死なせるわけにはいかん」
設計図。
その言葉が、惣介の頭に残った。
――――――
陸奥の宿を出ると、尾行の気配は消えていた。
陸奥が何かをしたのかもしれなかった。
惣介は夕暮れの京都を歩いた。
設計図。
帳簿の中に、設計図がある。
龍馬は何を設計していたのか。
別冊に、その答えがある。
惣介は懐の帳簿を触った。
「汐」という名前を思い出した。
長崎に、答えがある。




