第一巻 帳簿の男 第一話 近江屋の翌朝
本作について
本作は、幕末という実在の時代と、坂本龍馬をはじめとする歴史上の人物を題材としたフィクションです。
ただし、完全な創作ではありません。
東インド会社による港湾利権の掌握、英国系商社と日本の藩との密約、黒船商会のような組織が行っていた経済的侵略の手口——これらは史実として記録されています。
坂本龍馬が「商人脳を持つ経済戦略家」だったこと、海援隊が龍馬暗殺後も約一年間活動を続けていたこと、これも史実です。
本作は、その史実と史実のあいだにある「空白」を、小説として埋めようとした試みです。
登場人物の一部は架空であり、史実と異なる場面を含みます。ただし描いたことの本質——刀ではなく帳簿と航路と情報で戦おうとした人間たちの物語——は、嘘ではないと思っています。
八雲 海
慶応三年十一月十七日、朝。
岡崎惣介は、近江屋の前に立っていた。
路地は静かだった。昨夜の騒ぎが嘘のように、京都の朝は何事もなかったように始まっていた。豆腐売りの声が遠くで聞こえた。どこかで鶏が鳴いた。
惣介は動けなかった。
戸の前に、まだ血の跡があった。
――――――
海援隊の帳簿係になって二年になる。龍馬に直接声をかけられた。「お前は数字が読める。それだけで十分じゃ」それだけだった。剣の腕も、弁舌も、家柄も関係なかった。数字が読める。それだけで龍馬は人を使った。
惣介は二十三歳だった。
土佐の百姓の倅だった。
龍馬に声をかけられた時、自分の人生が変わったと思った。
昨夜、それが終わった。
――――――
「入れ」
後ろから声がした。
振り返ると、海援隊の古参、村田という男が立っていた。四十がらみ。無口な男だった。
「遺品の整理じゃ」村田は言った。「お前しかおらん」
惣介は頷いた。
戸を開けた。
――――――
部屋は片付けられていたが、畳に染みが残っていた。
惣介は息を止めた。
窓から朝の光が入っていた。埃が光の中を漂っていた。静かだった。昨夜ここで何が起きたか、部屋は何も語らなかった。
龍馬の荷物は隅にまとめられていた。
惣介は一つ一つ確かめた。着替え。書状。煙草入れ。
そして帳簿が出てきた。
――――――
表紙に墨で書かれていた。
「黒船商会」
惣介は首を傾げた。聞いたことのない名前だった。
開いた。数字の羅列だった。日付と金額と、港の名前。長崎。神戸。横浜。そして品目の欄に、何かを示す記号が並んでいた。
惣介は帳簿係だった。数字を読む訓練を積んでいた。
だからすぐに気づいた。
これは普通の商いの帳簿ではない。
金額が大きすぎる。品目が曖昧すぎる。そして港の並び方が、商いの流れとして不自然だった。
惣介は帳簿を閉じた。
周囲を見た。村田はいなかった。
懐に入れた。
――――――
帳簿をひと通り整理した後、惣介はもう一度部屋を見回した。
何かが足りない気がした。
帳簿の最後のページに、小さな書き込みがあった。
「別冊・在」
別冊。
惣介は荷物をもう一度調べた。
なかった。
どこにもなかった。
帳簿はあった。だが別冊は消えていた。
龍馬が死んだ後に、誰かが持ち去った。
――――――
部屋を出ると、村田が路地で煙草を吸っていた。
「終わったか」村田は言った。
「ええ」惣介は答えた。「帳簿が一冊ありました」
村田は煙草を踏み消した。「どんな帳簿じゃ」
「黒船商会という名前でした」
村田の顔が、わずかに動いた。
ほんの一瞬だった。だが惣介は見た。
「知らんな」村田は言った。「捨てておけ」
それだけ言って、歩き去った。
――――――
惣介は路地に一人残った。
懐の帳簿を触った。
村田は嘘をついた。
それだけは分かった。
なぜ嘘をついたのか。
なぜ「捨てておけ」と言ったのか。
惣介は空を見た。
京都の朝空だった。
龍馬が死んだ翌朝の、何事もない青空だった。




