第二十三話 長崎に帰る
長崎港に入った瞬間、匂いが変わった。
潮と石炭と、何か甘いもの。
惣介は船縁に立ち、近づく港を見た。
来た時と同じ匂いだった。
でも、違って見えた。
函館を経て、設計図を持って帰ってきた目には、長崎が違って見えた。
小さかった。
でも、その小ささが今は別の意味を持った。
まだ、設計できる。
まだ、動かせる。
――――――
埠頭に降りた。
波止場に人が行き来していた。
荷役の男たちが動いていた。
石炭を積んだ船が、一隻入ってきた。
惣介はその船を見た。
設計図の中に、この港のことが書いてあった。
龍馬が書いた数字の中に、この船の石炭補給の記録があった。
全部が繋がって見えた。
――――――
まず汐の店に向かった。
澄は自分の事務所に戻ると言って、波止場で別れた。
「明日、会いましょう」澄は言った。「陸奥さんへの連絡を、一緒に考えます」
「ええ」惣介は言った。「よろしくお願いします」
澄は路地に消えた。
惣介は波止場を歩いた。
――――――
汐の店は、変わっていなかった。
小さな石炭商の店。波止場の端。
表に看板が出ていた。「石炭問屋 汐」
惣介は戸を叩いた。
しばらくして、汐が出てきた。
惣介を見た。
「お帰りなさい」汐は言った。
「ただいま戻りました」
汐は少し間を置いた。
「顔が変わりましたね」汐は言った。
「そうですか」
「函館まで行ってきたんですか」
「ええ」
汐は惣介を見た。
「受け取りましたか」汐は静かに言った。「龍馬さんのものを」
惣介は頷いた。
――――――
店に上がった。
汐が茶を出した。
惣介は懐から手紙と、設計図の写しを出した。
まず手紙を渡した。
汐は受け取った。読んだ。
黙って読んだ。
読み終えて、しばらく手紙を見ていた。
何も言わなかった。
ただ、少し目を伏せた。
惣介は黙って待った。
――――――
しばらくして、汐が顔を上げた。
「設計図の写しも、持ってきてくれましたか」汐は言った。
「ええ」惣介は写しを渡した。
汐は受け取った。
開いた。
ゆっくりと読んだ。
途中で、手が止まった。
「父のことが」汐は静かに言った。
「ええ」惣介は言った。「保険の設計の部分に、書いてありました。小さい港を外してはならない、という条件の説明として」
汐は設計図を読み続けた。
最後のページまで読んだ。
「これは、誰かのものではない。日本のものだ」
汐は最後の一行を読んで、設計図を閉じた。
しばらく黙っていた。
――――――
「龍馬さんは」汐は言った。「最後まで、設計していたんですね」
「ええ」
「儂は笑って流した、と言っていましたね」汐は静かに言った。「最初に、港のことを話した時」
「覚えていますか」
「覚えています」汐は言った。「でも」
「でも」
「笑って流したから、自分の目で確かめに行った」汐は静かに言った。「確かめて、設計図を書いた。笑って流されなかったら、もっと早く動いて、もっと早く死んでいたかもしれない」
惣介は汐を見た。
「そういう考え方もあるんですか」
「分かりません」汐は言った。「ただ、そう思わないと、父の死が重すぎて動けません」
惣介は黙った。
汐は設計図を持ったまま、窓の外を見た。
波止場が見えた。
蒸気船の煙が上がっていた。
――――――
「惣介さん」汐は言った。「設計図を動かすつもりですか」
「動かします」惣介は言った。「最初の一本だけでも」
「最初の一本は、どこですか」
「長崎から神戸への航路です」惣介は言った。「龍馬さんが設計した路線の、最初の部分です」
汐は頷いた。
「何が必要ですか」
「船と、各港の商人の協力と」惣介は言った。「あとは情報です。どの港で何が動いているか。黒船商会がどう動いているか」
「情報なら」汐は静かに言った。「少し持っています」
「どういう情報ですか」
「黒船商会が、最近、長崎近郊の港でまた動き始めています」汐は言った。「保険の査定が変わった港が、二つあります」
惣介は止まった。
「また同じことをしているんですか」
「ええ」汐は静かに言った。「止まっていない」
惣介は設計図を思い出した。
龍馬が描いた航路の線。
黒船商会が引いた赤い印。
まだ戦いは続いていた。
――――――
「汐さん」惣介は言った。「設計図の写しを、持ってもらえますか」
「私が、ですか」
「ええ」惣介は言った。「坂井さんが函館で守っています。澄さんが持っています。そして汐さんに持ってもらいたい」
「なぜ私に」
「龍馬さんの設計図の中に、あなたのお父さんのことが書いてある」惣介は言った。「だから、あなたが持つべきだと思います」
汐はしばらく設計図を見た。
「責任が重い」汐は静かに言った。
「重いです」惣介は言った。「でも、あなたなら守れます。龍馬さんが信頼した人間だから」
汐は惣介を見た。
しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「分かりました。守ります」
「ありがとうございます」
「礼はいりません」汐は言った。「父のためでもあります」
――――――
店を出る前に、惣介は振り返った。
「汐さん」惣介は言った。「一つだけ聞かせてください」
「なんですか」
「龍馬さんは、本当に正しかったと思いますか」
汐はしばらく考えた。
「正しかったかどうかは」汐は静かに言った。「まだ分かりません。設計図が動いて、港が変わって、人が選べるようになった時に、初めて分かると思います」
「それは、いつですか」
「分かりません」汐は言った。「でも」
「でも」
「あなたが動かしている間は、分かる日が近づいていきます」汐は静かに言った。「止まれば、遠ざかります」
惣介は頷いた。
「止まりません」惣介は言った。
汐は少し頷いた。
「それだけで、十分です」汐は静かに言った。
――――――
店を出ると、長崎の夕暮れが始まっていた。
波止場が赤く染まっていた。
蒸気船の煙が、夕陽の中に溶けていった。
惣介は波止場を歩いた。
懐に設計図があった。
汐が写しを持った。
澄が覚書を持っている。
坂井が函館で守っている。
神谷が情報を送ってくれる。
全部が繋がっていた。
龍馬が設計した通りではなかった。
でも、繋がっていた。
惣介は煙草を出した。
火をつけた。
煙を吐いた。
霧の中で、煙が白く溶けた。
長崎の朝は、霧から始まる。
だがこれは夕暮れだった。
霧ではなく、夕陽の中にいた。
惣介は波止場の端に立った。
海を見た。
波が来て、引いた。
繰り返していた。
止まらなかった。
明日、陸奥に連絡を取る。
設計図の最初の一本を動かし始める。
龍馬の続きを、始める。
惣介は煙草を踏み消した。
歩き出した。




