第二十二話 火
出発の朝、神谷が宿に来た。
惣介と澄が荷をまとめていた時だった。
「見送りに来ました」神谷は言った。
「ありがとうございます」
神谷は部屋に入った。三人で向き合った。
「依頼人の動きです」神谷は言った。「送った人間は、昨日函館に着きました。今日、坂井さんの店に行くはずです」
「坂井さんは大丈夫ですか」惣介は聞いた。
「大丈夫です」神谷は言った。「儂が昨日、坂井さんに伝えました。別冊は存在しない、という話を」
「話を合わせてくれたんですか」
「ええ」神谷は静かに言った。「坂井さんは、すぐに分かってくれました。龍馬さんの仲間だから」
――――――
惣介は神谷を見た。
「神谷さん」惣介は言った。「函館で、これからどう生きますか」
神谷は少し考えた。
「まだ決まっていません」神谷は言った。「ただ、一つだけ決めたことがあります」
「なんですか」
「誰かの道具には、なりません」神谷は静かに言った。「龍馬さんの言葉を、今度こそ聞きます」
惣介は頷いた。
「函館の港のことを、教えてもらえますか」惣介は言った。「設計図を動かす時に、北の情報が必要になります」
「連絡先を教えます」神谷は言った。「坂井さんを通してもらえれば、届きます」
「ありがとうございます」
「礼はいりません」神谷は言った。「自分のためにやることです」
――――――
荷をまとめ終えた頃、澄が神谷に言った。
「神谷さん」澄は言った。「お父さんのことを、教えてもらえますか。長崎で何があったか」
神谷は少し止まった。
「今更、何のためですか」
「証拠があります」澄は静かに言った。「父を殺した人間の証拠が。いつか時期が来た時に、使います。その時、あなたのお父さんのことも、一緒に明らかにできるかもしれない」
神谷は澄を見た。
長い沈黙があった。
「十二年前のことです」神谷はゆっくり言った。「父は英国商館の取引の通訳をしていました。黒船商会の前身になる組織との取引でした。その内容を知りすぎた」
「どんな取引でしたか」
「長崎の港の利権を、外国商社に売る取引です」神谷は静かに言った。「当時の幕府の役人が関わっていました。父はその通訳をして、名前を知ってしまった」
澄は黙って聞いた。
「その役人は、今も生きています」神谷は言った。「新政府の中にいます」
澄は紙に書き留めた。
「ありがとうございます」澄は言った。
「証拠になりますか」
「なります」澄は静かに言った。「覚書と合わせれば、十分です」
神谷は窓の外を見た。
「父の死が、意味を持ちますか」神谷は静かに聞いた。
「持ちます」澄は言った。「必ず」
――――――
三人は宿を出た。
波止場まで、一緒に歩いた。
函館の朝は晴れていた。
昨日と同じ、珍しい晴れだった。
港に光が落ちていた。
「惣介さん」神谷は歩きながら言った。「一つだけ聞いていいですか」
「なんですか」
「設計図を動かして、日本は変わりますか」
惣介は少し考えた。
「分かりません」惣介は正直に言った。「すぐには変わらないかもしれません」
「では、なぜ動かすんですか」
「変わらなくても、動かし続ければ、いつか変わる」惣介は言った。「龍馬さんが時期尚早だと言いながら書いたように」
神谷は黙った。
「それだけの理由で、動けますか」神谷は言った。
「動けます」惣介は言った。「龍馬さんがそうだったから」
神谷はしばらく黙って歩いた。
それから、静かに言った。
「儂も、いつかそういう理由で動けるようになりたい」
惣介は神谷を見た。
「なれます」惣介は言った。「今夜から、もうなっています」
神谷は少し笑った。
柔らかい笑い方だった。
長崎で最初に会った時の、穏やかな笑い方とは違った。
何かが混じっていた。
惣介には、その何かが分かった気がした。
――――――
波止場に着いた。
船が待っていた。
長崎行きだった。
惣介と澄は船に乗り込んだ。
神谷は埠頭に立っていた。
「また会いましょう」惣介は言った。
「ええ」神谷は言った。「設計図の話を、また聞かせてください」
「話します」
船が動き出した。
函館が遠ざかった。
神谷の姿が小さくなった。
惣介は甲板に立ち、函館を見た。
函館山が見えた。港が見えた。霧の中に、船が浮かんでいた。
龍馬が二年前に見た港だった。
惣介がこれから動かそうとしている設計図が生まれた場所だった。
――――――
船が沖に出た頃、澄が惣介の隣に来た。
「函館を出ましたね」澄は言った。
「ええ」
「惣介さん」澄は言った。「一つ、話があります」
「なんですか」
澄は少し間を置いた。
「長崎に帰ったら、覚書を陸奥さんに見せることを、考えています」澄は言った。
惣介は澄を見た。
「今じゃないと言っていましたね」
「ええ」澄は言った。「ただ、陸奥さんは新政府の中にいます。設計図を動かすには、新政府の力が必要になる場面が来る。その時のために、覚書の存在を知っておいてもらう必要があります」
「交渉の道具として」
「そうです」澄は静かに言った。「公開はしない。でも、持っていることを知らせる。それだけで、動ける場面が増えます」
惣介は海を見た。
「龍馬さんが、そういう使い方を考えていたんですか」
「そうだと思います」澄は言った。「証拠は、使う時より、持っている時の方が力があることがある」
惣介は頷いた。
「澄さんに任せます」惣介は言った。「儂には、そういう判断は難しい」
「帳簿係らしくないですか」澄は少し笑った。
「帳簿係は、数字は読めます」惣介は言った。「でも、人の動かし方は苦手です」
「龍馬さんも、そう言っていました」澄は静かに言った。「人の動かし方が苦手だから、仕組みを作る、と」
惣介は笑った。
「そういうことですか」
「ええ」澄は言った。「仕組みがあれば、人を動かさなくても、動く」
惣介は海を見た。
波が来て、引いた。
繰り返していた。
止まらなかった。
――――――
夕暮れ時、船が津軽海峡を抜けた。
空が赤くなった。
長崎の夕暮れとは違う赤さだった。
でも、美しかった。
惣介は甲板に立ち、空を見た。
懐に設計図があった。
澄が覚書を持っていた。
神谷が函館に残った。
坂井が写しを守っている。
全部が繋がっていた。
バラバラに置かれていても、繋がっていた。
龍馬の設計図と同じだった。
龍馬は一人で書いた。でも一人ではなかった。
惣介も一人ではなかった。
――――――
夜、船室に入る前に、惣介は甲板で紙を出した。
書き始めた。
汐への手紙だった。
今まで、汐に手紙を書いたことはなかった。
でも今夜は書けた。
書くべきことが、はっきりしていた。
「汐さん、龍馬さんの設計図を受け取りました。設計図の中に、あなたのお父さんのことが書いてありました。港を守るための設計の中に、福浦の港のことが書いてありました。龍馬さんはあの港を、最後まで忘れていませんでした」
書いて、止まった。
続きをどう書けばいいか、少し考えた。
それから書いた。
「儂は、設計図を動かします。最初の一本だけでも。それが動けば、次が繋がります。あなたのお父さんが死んだ港を、もう一度、人が選べる港にしたいと思っています」
書き終えた。
風が来て、紙の端が揺れた。
惣介は紙を押さえた。
海を見た。
どこまでも続く海だった。
この海の向こうに、長崎がある。
汐がいる。
帰らなければならない場所がある。
惣介は手紙を折り畳んだ。
懐に入れた。
設計図と、一緒に。




