第二十一話 坂井への別れ
出発の前日、惣介は坂井の店を訪ねた。
一人で行った。
設計図の写しを、返しに行くためだった。
――――――
戸を叩くと、坂井がすぐに出てきた。
惣介を見て、中に通した。
座ると、坂井が茶を出した。
「函館はどうでしたか」坂井は聞いた。
「いろんなことがありました」惣介は言った。「でも、動けました」
「設計図は」
「読みました」惣介は言った。「写しを三冊作りました」
坂井は頷いた。
「龍馬さんが聞いたら、喜ぶでしょうね」坂井は静かに言った。
――――――
惣介は懐から写しを一冊出した。
坂井の前に置いた。
「これを、また守ってください」惣介は言った。
坂井は写しを見た。
「儂が守るんですか」
「ええ」惣介は言った。「原本は別の場所に置きます。でも函館にも、一冊必要です」
「なぜですか」
「龍馬さんが北を信じていたからです」惣介は言った。「函館はまだ、黒船商会が完全に手を伸ばしていない。ここに置いておく意味があります」
坂井は写しを手に取った。
ゆっくりと開いた。
惣介の字で書かれた設計図を読んだ。
途中で、手が止まった。
「これは」坂井は言った。「龍馬さんの内容そのままですか」
「そのままです」
「あなたが、一字一句写したんですか」
「ええ」
坂井は写しを閉じた。
しばらく黙っていた。
「龍馬さんは」坂井は静かに言った。「いい帳簿係を選んだ」
――――――
惣介は坂井を見た。
「坂井さん」惣介は言った。「龍馬さんが函館に来た時のことを、教えてもらえますか」
坂井は少し間を置いた。
「二年前のことです」坂井は言った。「亀山社中の仕事で、北の航路を調べていました。龍馬さんは函館の港を歩いて、一日中見ていた」
「何を見ていましたか」
「港の水深。石炭の補給。入港できる船の大きさ」坂井は言った。「全部、帳簿に書いていた。その帳簿が、設計図の元になったと思います」
惣介は頷いた。
「龍馬さんは、何か言っていましたか。函館で」
坂井はしばらく考えた。
「一つだけ」坂井は言った。「港を見ながら言っていました。『ここはまだ、誰も線を引いていない』と」
「誰も線を引いていない」
「ええ」坂井は静かに言った。「嬉しそうでした。珍しく、子供みたいな顔をしていた」
惣介は窓の外を見た。
函館の港が見えた。
霧の中に、船が浮かんでいた。
龍馬が二年前に見た港だった。
誰も線を引いていない、と喜んだ港だった。
――――――
「坂井さん」惣介は言った。「儂は長崎に帰ります。設計図の、最初の一本を動かしに行きます」
坂井は惣介を見た。
「龍馬さんの設計図を、あなたが動かすんですか」
「動かそうと思っています」惣介は言った。「うまくいくかどうか、分かりません。でも、動かさなければ設計図は紙のままです」
坂井はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「龍馬さんが言っていました」坂井は言った。「『設計図は道具じゃ。使わにゃ意味がない』と」
「使います」惣介は言った。
坂井は頷いた。
「函館のことは、儂に任せてください」坂井は言った。「北の港のことは、儂が一番よく知っている。何かあれば、知らせます」
「ありがとうございます」
「礼はいりません」坂井は言った。「龍馬さんへの返しです」
――――――
店を出る前に、惣介は振り返った。
「坂井さん」惣介は言った。「二年間、守ってくれて、ありがとうございました」
坂井は少し照れた顔をした。
「大したことではありません」坂井は言った。「乾物の陰に置いておいただけです」
「それが一番難しいんです」惣介は言った。「目立たずに、静かに、守り続けることが」
坂井は惣介を見た。
「あなたは」坂井は静かに言った。「龍馬さんによく似ている」
「よく言われます」惣介は苦笑した。「でも、似ていません。儂は龍馬さんほど大きくない」
「大きさじゃありません」坂井は言った。「人の言葉を、ちゃんと受け取る。それが似ています」
惣介は黙った。
龍馬はそういう人間だった。
汐の言葉を受け取った。澄の父の死を受け取った。坂井の港への愛着を受け取った。
全部を受け取って、設計図に書いた。
惣介は今、その設計図を受け取った。
次は、動かす番だった。
――――――
店を出ると、函館の空が晴れていた。
珍しかった。
雲が薄くなって、青空が見えた。
港に光が落ちていた。
船が光の中に浮かんでいた。
惣介は空を見た。
長崎の空とも、京都の空とも、違う青さだった。
北の空だった。
広かった。
龍馬はここで、誰も線を引いていないと喜んだ。
惣介はここで、設計図を受け取った。
同じ港で、二年の時を隔てて、龍馬と惣介が繋がった。
惣介は歩き出した。
宿に戻る。
明日、函館を出る。
長崎へ向かう。
設計図の、最初の一本を引きに行く。




