第十九話 設計図を読む夜
宿に戻ると、惣介は設計図を広げた。
もう一度、最初から読んだ。
今度は違う読み方をした。
最初に読んだ時は、龍馬の字に圧倒されていた。
今度は、帳簿係として読んだ。
数字を追った。設計を追った。
――――――
航路の設計から始まった。
長崎から神戸。神戸から横浜。横浜から函館。
各港の接続。石炭の補給地点。蒸気船の回転日数。
数字が細かかった。龍馬らしくない、と惣介は思った。龍馬は大きな絵を描く人間だった。細部は人に任せる人間だった。
でもここには、細部まで書いてあった。
誰にも任せられなかったからだ。
これを共有できる人間が、まだいなかったからだ。
惣介は数字をなぞった。
この数字は、龍馬が一人で計算したものだった。
――――――
保険の仕組みの設計に入った。
惣介は手を止めた。
細かかった。
査定の基準。小さい港も外さない設計。リスクを数字だけで見ない仕組み。
「人が選べるようにする」という言葉が、数字として書かれていた。
例えば、一つの項目にこう書かれていた。
「水深が浅くても、地元の商人が長年使っている港は、査定を下げてはならない。理由:その港を失えば、地域の商いが死ぬ」
惣介は止まった。
福浦の港のことが書いてあった。
名前は書かれていなかった。だが、内容は福浦のことだった。
汐の父が死んだ港のことが、設計図の中にあった。
――――――
惣介は顔を上げた。
澄が向かいに座っていた。一緒に読んでいた。
「福浦のことが書いてあります」惣介は言った。
「ええ」澄は静かに言った。「龍馬さんは、あの港のことを書いていた」
「汐さんの父親が死んだ港です」
「知っています」澄は言った。「龍馬さんから聞きました。だから書いた。あの死を、無駄にしたくなかったから」
惣介は設計図を見た。
龍馬の字が、そこにあった。
汐の父の死が、設計図の中に生きていた。
惣介は目を閉じた。
少し、動けなかった。
――――――
しばらくして、惣介は続きを読んだ。
情報網の設計だった。
各港の商人が、情報を共有する仕組み。
どの港で何が動いているか。どの航路が混んでいるか。どこで保険の査定が変わったか。
全部を繋げれば、黒船商会の動きが見える。
そして対抗できる。
惣介は紙に書き出した。
設計図の内容を、自分の言葉で整理した。
帳簿係として二年間積んできた訓練が、ここで使えた。
数字を読む。整理する。別の形に置き換える。
――――――
夜中になった。
澄が茶を入れてくれた。
「疲れましたか」澄は聞いた。
「大丈夫です」惣介は言った。「続けます」
澄は惣介の隣に座った。
「惣介さん」澄は言った。「一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「設計図を読んで、どう思いましたか」
惣介は少し考えた。
「龍馬さんは、答えを知っていた」惣介は言った。「儂がロンドンにもどこにも行かずに、長崎と函館だけで、答えを出していた」
「それが悔しいですか」
「悔しくはないです」惣介は言った。「ただ」
「ただ」
「龍馬さんが生きていれば、もっと早く動けた」惣介は静かに言った。「設計図は完成していた。あとは実行するだけだった。それが、二ヶ月前に止まった」
澄は黙って聞いた。
「止まったけど、消えていない」惣介は続けた。「ここにある。坂井さんが守っていた。汐さんが覚えていた。澄さんが繋いでいた。神谷さんが今夜、選んだ」
「だから」
「だから、まだ動ける」惣介は設計図を見た。「龍馬さんの続きを、動かすことができる」
――――――
夜明け近く、惣介は設計図を読み終えた。
最後のページを、もう一度読んだ。
「これは、誰かのものではない。日本のものだ」
龍馬の最後の一行を読んだ。
惣介はしばらく、その一行を見ていた。
「澄さん」惣介は言った。
「はい」
「この設計図を、燃やさない方法を考えます」惣介は言った。「公開するかどうかは、まだ決めていません。でも、消えないようにする方法を」
「どういう方法ですか」
「写しを作ります」惣介は言った。「一冊ではなく、複数。それぞれ別の場所に置く」
「坂井さんがやっていたことを、もっと広げる」
「そうです」惣介は言った。「一箇所にあれば、燃やされる可能性がある。でも複数の場所に分けて置けば、全部を燃やすことはできない」
澄は惣介を見た。
「龍馬さんの方法と同じですね」澄は静かに言った。「バラバラに預ける。でも繋がっている」
惣介は頷いた。
「龍馬さんから学んだ方法です」
――――――
夜明けの光が、窓から入ってきた。
函館の朝だった。
港に霧が出ていた。
船が霧の中に浮かんでいた。
惣介は設計図を閉じた。
写しを作る。
どこに置くか。誰に預けるか。
一つは坂井さんに戻す。
一つは澄が持つ。
一つは——
惣介は考えた。
汐に渡す。
長崎の波止場に、設計図を届ける。
汐の父が死んだ場所に、設計図を置く。
それが正しい気がした。
――――――
「澄さん」惣介は言った。「長崎に帰ったら、汐さんに渡したい」
澄は惣介を見た。
「設計図の写しをですか」
「ええ」惣介は言った。「汐さんの父親のことが、設計図に書いてあります。汐さんが持つべきだと思います」
澄は少し間を置いた。
「龍馬さんが聞いたら、何と言うでしょうか」澄は静かに言った。
「分かりません」惣介は言った。「でも、間違っていない気がします」
澄は頷いた。
「私も、そう思います」澄は言った。
二人は窓の外を見た。
函館の朝が、霧の中から始まっていた。
港に波が来て、引いた。
繰り返していた。
止まらなかった。




