第十八話 神谷との対決
翌朝、神谷から文が届いた。
短かった。
今夜、波止場の倉庫で会いたい。答えを出す。
惣介は文を澄に見せた。
澄は読んで、少し考えた。
「罠かもしれません」澄は言った。
「そうかもしれません」惣介は言った。「でも、行きます」
「なぜですか」
「神谷さんは、昨夜、設計図を燃やさないと言いました」惣介は言った。「あの言葉は本心だったと思います」
「感情で判断していませんか」
「しています」惣介は言った。「でも、帳簿係として二年間、数字だけで判断してきた。今くらいは感情で動いてもいい」
澄は惣介を見た。
少し間を置いて、言った。
「一緒に行きます」
――――――
夜、二人は波止場に向かった。
函館の夜は暗かった。
ガス灯が点っていたが、霧で滲んでいた。
倉庫は波止場の端にあった。
古い建物だった。木造だった。中から灯りが漏れていた。
惣介は戸を開けた。
――――――
中に、神谷がいた。
一人だった。
手下はいなかった。
小さな燭台が一つ、床に置かれていた。その灯りの中に、神谷が座っていた。
「来ましたか」神谷は言った。
「来ました」惣介は言った。「答えは出ましたか」
「出ました」神谷は静かに言った。「座ってください」
――――――
三人で向き合った。
神谷は懐から紙を出した。
「依頼人への報告書です」神谷は言った。「書きました」
惣介は受け取った。
読んだ。
「別冊は存在しなかった」と書かれていた。「坂井という商人は、二年前に龍馬から預かったものを、すでに処分していた。設計図は現存しない」
嘘の報告書だった。
「これを依頼人に送るんですか」惣介は聞いた。
「送りました」神谷は言った。「今朝、電信で」
惣介は止まった。
「もう送った」
「ええ」神谷は静かに言った。「迷っていたら、動けない。だから先に動きました」
――――――
惣介は神谷を見た。
この男は、依頼人を裏切った。
値段次第で動く男が、値段ではないところで動いた。
「なぜですか」惣介は聞いた。
神谷はしばらく黙った。
「昨夜、澄さんから父の話を聞きました」神谷は静かに言った。「父は長崎で、外国商社の秘密を知りすぎて死んだ。儂はその後、誰も信頼しないことにした。値段次第で動くことにした」
「それが変わったんですか」
「変わった、というより」神谷は言った。「限界が来た、という感じです」
「限界」
「値段次第で動いていると、いつか値段がつけられない場面が来る」神谷は静かに言った。「昨夜がそうでした。坂井さんの顔を思い出した。設計図に書かれていた龍馬さんの字を思い出した。値段がつけられなかった」
惣介は黙って聞いた。
「龍馬さんが言っていました」神谷は続けた。「『誰かの道具で終わるな』と。儂はずっと、誰かの道具だった。今夜だけは、違うことをしたかった」
――――――
部屋が静かになった。
燭台の灯りが揺れた。
「神谷さん」澄が言った。「依頼人は、どう動きますか」
「別の人間を使って、調べ直すかもしれません」神谷は言った。「ただ、函館は今、混乱しています。榎本の勢力と新政府の衝突が近い。その中で動くのは難しい」
「時間が稼げますか」
「しばらくは」神谷は言った。「その間に、設計図をどうするか決めてください」
惣介は神谷を見た。
「神谷さんは、これからどうするんですか」
神谷は少し笑った。
「依頼人を裏切った人間に、次の仕事は来ません」神谷は言った。「長崎には戻れない。函館でしばらく生きます」
「函館で、何をするんですか」
「まだ決めていません」神谷は静かに言った。「初めて、何も決まっていない状態です」
「怖くないですか」
「怖いです」神谷は言った。「でも、龍馬さんも怖かったはずだ。それでも動いた。それだけは、昨夜分かりました」
――――――
惣介は懐から設計図を出した。
神谷の前に置いた。
「読んでください」惣介は言った。
「いいんですか」
「ええ」惣介は言った。「あなたは今夜、依頼人を裏切って設計図を守った。読む資格があります」
神谷は設計図を手に取った。
開いた。
ゆっくりと読んだ。
惣介は神谷の顔を見た。
読み進めるにつれて、神谷の表情が変わっていった。
穏やかな顔が、少しずつ違う顔になっていった。
何かを感じている顔だった。
値段で動く男が、値段では買えないものを見ている顔だった。
――――――
読み終えて、神谷は設計図を惣介に返した。
しばらく黙っていた。
「これを」神谷はゆっくり言った。「龍馬さんは一人で書いたんですか」
「そうだと思います」
「一人で」神谷は繰り返した。「誰にも言わずに」
「ええ」
神谷は燭台の灯りを見た。
「孤独だったんですね」神谷は静かに言った。「儂と、同じように」
惣介は黙った。
「違います」澄が言った。
神谷は澄を見た。
「龍馬さんは孤独でしたが、一人ではありませんでした」澄は静かに言った。「汐さんがいた。坂井さんがいた。平井さんがいた。そして私がいた」
「でも誰にも、設計図を見せなかった」
「見せなかった」澄は言った。「でも、それぞれに何かを預けた。バラバラに預けた。だから全体は誰も知らなかった。でも繋がっていた」
神谷は澄を見た。
「あなたは今、惣介さんに全部渡した」澄は続けた。「龍馬さんが繋いだものが、惣介さんのところで一つになった」
部屋が静かになった。
惣介は設計図を見た。
澄の言っていることが、惣介には分かった。
龍馬は一人で書いた。だが一人ではなかった。
そして今、惣介の手に全部ある。
――――――
「惣介さん」神谷は言った。「設計図を、どうするつもりですか」
「まだ決めていません」惣介は言った。「でも、一つだけ決まっています」
「なんですか」
「燃やしません」
神谷は頷いた。
「もう一つ」神谷は言った。「儂に、手伝えることはありますか」
惣介は神谷を見た。
昨夜まで敵だった男が、今夜こう言っている。
「あります」惣介は言った。
「何ですか」
「依頼人の動きを、教えてください」惣介は言った。「いつ、どこで動くか。それだけで十分です」
神谷は少し間を置いた。
「それくらいなら」神谷は静かに言った。「できます」
惣介は頷いた。
「ありがとうございます」
「礼はいりません」神谷は言った。「儂が選んだことです」
――――――
三人は倉庫を出た。
函館の夜が冷たかった。
霧が濃くなっていた。
港の船が、霧の中に消えていた。
「惣介さん」神谷は歩きながら言った。「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「設計図の最後に、『これは誰かのものではない。日本のものだ』と書いてありました」神谷は静かに言った。「龍馬さんは、本気でそう思っていたんですか」
惣介は少し考えた。
「本気だったと思います」惣介は言った。「龍馬さんは、本気でないことは書かない人でした」
神谷は黙った。
霧の中を歩いた。
しばらくして、静かに言った。
「儂には、そういうものがなかった」神谷は言った。「誰かのものでもなく、日本のものでもなく、ただ値段のものだった」
「今は」惣介は聞いた。
神谷は少し間を置いた。
「今夜だけは」神谷は静かに言った。「値段のないものを選んだ気がします」
三人は霧の中を歩いた。
港の波の音が聞こえた。
止まらなかった。




