第十七話 神谷の正体
宿に戻ると、部屋に男が座っていた。
神谷弦四郎だった。
惣介の部屋だった。鍵がかかっていたはずだった。だが神谷は座っていた。茶を飲んでいた。惣介の茶碗で。
「お帰りなさい」神谷は言った。穏やかだった。
惣介は入口に立ったまま動かなかった。
澄も動かなかった。
「どうぞ、座ってください」神谷は言った。「話があります」
――――――
惣介は部屋に入った。
澄も入った。
二人で座った。
神谷は茶碗を置いた。
「別冊を受け取りましたね」神谷は言った。
「どうして分かるんですか」
「坂井さんの店に、人を置いていました」神谷は穏やかに言った。「店を出た時の顔が違った。受け取った人間の顔でした」
惣介は神谷を見た。
この男は函館に先に来ていた。坂井の店を把握していた。だが坂井を動かさなかった。惣介たちが来るまで待っていた。
なぜか。
――――――
「渡してもらえますか」神谷は言った。
「断ります」
「そうおっしゃると思っていました」神谷は少し笑った。「では、少し話を聞いてください」
惣介は黙って待った。
「私が誰の依頼で動いているか、話します」神谷は言った。「長崎では言いませんでした。でも函館では、言う必要があると判断しました」
「なぜ函館では言えるんですか」
「状況が変わったからです」神谷は静かに言った。
――――――
神谷は話し始めた。
「依頼人は、新政府の中にいます」神谷は言った。「名前は言いません。ただ、覚書の署名者の一人です」
澄が、わずかに息を吸った。
「覚書を知っているんですか」惣介は言った。
「知っています」神谷は言った。「その署名者が、別冊の回収を依頼してきた。設計図の中に、覚書への言及がある可能性があるから」
「あなたは、その依頼を受けた」
「受けました」神谷は言った。「ただ」
「ただ」
「函館に来て、坂井さんを見ました」神谷は静かに言った。「二年間、誰にも言わずに守っていた老人を見ました。そして惣介さんたちが来た時の坂井さんの顔を見ました」
「それで」
「迷っています」神谷は言った。「依頼通りに動くべきかどうか」
――――――
惣介は神谷を見た。
この男が迷っている。
値段次第で動く男が、値段ではないところで迷っている。
「なぜ迷うんですか」惣介は聞いた。
神谷はしばらく黙った。
「龍馬さんに会ったことがある、と言いましたね」神谷は言った。
「ええ」
「あの人は」神谷は言った。「儂に言いました。『あんたは頭がいい。だが誰かの道具で終わるな』と」
「龍馬さんが」
「長崎で、一度だけ話した時です」神谷は静かに言った。「儂は笑って流しました。でも」
「でも」
「今になって、その言葉が出てきます」神谷は言った。「坂井さんの顔を見た時。惣介さんたちを見た時」
部屋が静かになった。
惣介は神谷を見た。
この男の中に、まだ何かが残っていた。
――――――
「神谷さん」惣介は言った。「あなたの依頼人の名前を教えてもらえますか」
神谷は少し間を置いた。
「なぜですか」
「覚書と設計図を合わせると、全体が見えます」惣介は言った。「依頼人の名前が分かれば、もっとはっきりします」
「教えたら、どうするんですか」
「まだ決めていません」惣介は正直に言った。「でも、知った上で判断したい」
神谷は惣介を見た。
しばらく黙っていた。
「薩摩の商人です」神谷はゆっくり言った。「名前は——」
神谷が名前を言った。
澄が、紙に書き留めた。
惣介は覚えた。
覚書の署名の中にあった名前だった。
――――――
「神谷さん」澄が口を開いた。
初めてだった。ここまで澄は黙っていた。
「なんですか」
「あなたのお父さんも、通詞でしたね」澄は静かに言った。
神谷は止まった。
「なぜそれを」
「長崎の英国商館で、同じ時期に働いていました」澄は言った。「あなたのお父さんと、私の父が」
神谷は澄を見た。
長い沈黙があった。
「知っていましたか」神谷は静かに言った。「澄さんが、そういう人間だということを」
「長崎を出る前に、調べました」澄は言った。「あなたが情報を売る仕事を始めた理由が、少し分かりました」
神谷は黙った。
惣介は二人を見た。
この二人には、惣介の知らない長崎の歴史があった。
――――――
「お父さんは」澄は言った。「今も長崎にいますか」
「死にました」神谷は静かに言った。「十二年前です」
「どうして」
「英国商館の秘密を知りすぎた」神谷は言った。「それだけです」
澄は黙った。
惣介も黙った。
神谷の父も、澄の父も、同じ理由で死んでいた。
同じ場所で。同じ時期に。
「だから、情報を売ることにした」惣介は言った。
「誰も信頼しなければ、同じことにならない」神谷は静かに言った。「そう思いました」
「龍馬さんの言葉が出てくるのは」惣介は言った。「あの人だけは、信頼できる人間に見えたからですか」
神谷は答えなかった。
ただ、窓の外を見た。
函館の港が見えた。
霧の中に、船が浮かんでいた。
――――――
しばらして、神谷は立ち上がった。
「今夜は帰ります」神谷は言った。「依頼については、明日答えを出します」
「どういう答えが出ますか」惣介は聞いた。
「分かりません」神谷は静かに言った。「でも、一つだけ言えます」
「なんですか」
「設計図を燃やすつもりはありません」神谷は言った。「それだけは、依頼人に反しても、できません」
惣介は神谷を見た。
「なぜですか」
神谷は少し間を置いた。
「坂井さんが二年間守ったものを」神谷は静かに言った。「儂が燃やしたら、龍馬さんに顔向けできない」
それだけ言って、神谷は部屋を出た。
足音が廊下に消えた。
――――――
惣介と澄は、しばらく黙っていた。
「澄さん」惣介は言った。「神谷さんの父親のことは、知っていたんですか」
「来る前に調べました」澄は静かに言った。「私の父と、同じ時期に死んでいた。調べたら、繋がっていた」
「だから函館で話した」
「ええ」澄は言った。「神谷さんを動かせるとしたら、お金ではないと思いました。別のものだと思いました」
惣介は澄を見た。
この女は、ここまで計算していた。
長崎を出る前から。
「澄さんは」惣介は言った。「怖くないですか」
「怖いです」澄は静かに言った。「でも、龍馬さんも怖かったはずです。それでも動いた」
惣介は黙った。
懐の設計図を触った。
龍馬の字が、そこにあった。




