第三巻 蝦夷地の火 第十六話 設計図の守り人
翌朝、惣介と澄は函館の街に出た。
坂井という商人の店は、函館山の裏手にあった。
波止場からは少し離れていた。目立たない場所だった。表に看板が出ていた。「坂井屋 乾物」
乾物商だった。
惣介は看板を見た。
龍馬の古い協力者が、乾物商。
似合わない気がした。だが考えれば、似合っていた。どんな港にも乾物を売る店はある。荷の出入りが多い。人が来ても不思議ではない。目立たない商売が、一番安全だった。
――――――
戸を叩いた。
しばらくして、老人が出てきた。
五十がらみ。痩せていた。背が低かった。目が鋭かった。
澄を見て、すぐに顔が変わった。
「澄さん」老人は言った。「来てくれましたか」
「坂井さん」澄は言った。「こちらが岡崎惣介さんです。龍馬さんの帳簿係でした」
坂井は惣介を見た。
しばらく見ていた。
「入りなさい」坂井は言った。
――――――
店の奥に通された。
乾物の匂いがした。棚に干物と昆布が並んでいた。
奥の部屋に座った。
坂井が茶を出した。
「龍馬さんのことは」惣介は言った。
「聞きました」坂井は言った。「長崎から知らせが来ました」坂井は茶碗を持ったまま、しばらく黙った。「残念じゃった。本当に残念じゃった」
老人の目が、少し赤くなった。
惣介は黙って待った。
――――――
しばらくして、坂井が口を開いた。
「龍馬さんから預かっているものがあります」坂井は言った。「いつか誰かが取りに来ると言っていた。澄さんが連れてくる、とも言っていた」
「別冊ですか」惣介は聞いた。
「ええ」坂井は頷いた。「二年前に預かりました。龍馬さんが函館に来た時です」
「龍馬さんが、函館に来たことがあるんですか」
「一度だけ」坂井は言った。「亀山社中の頃です。船の仕事で。その時に、これを預けていきました」
坂井は立ち上がった。
棚の奥を探った。
乾物の陰から、小さな包みを取り出した。
油紙で包まれていた。紐で縛られていた。
惣介の前に置いた。
「開けてください」坂井は言った。「儂は中を見ていません。龍馬さんに、取りに来た人間が開けるまで見るな、と言われました」
――――――
惣介は包みを見た。
小さかった。
手のひらに乗るくらいだった。
油紙は少し黄ばんでいた。二年間、ここに置かれていた。
惣介は澄を見た。
澄は頷いた。
惣介は紐をほどいた。
油紙を開いた。
中から、帳簿が出てきた。
表紙に墨で書かれていた。
「設計図」
龍馬の字だった。
惣介は知っていた。二年間、龍馬の帳簿を扱ってきた。この字を何度も見てきた。
間違いなかった。
――――――
惣介は帳簿を開いた。
最初のページに、一行だけ書かれていた。
「人が選べるようにするための、仕組みの設計」
次のページから、数字と図が始まった。
航路の設計。長崎から神戸、横浜、函館へ。各港の接続。石炭の補給地点。
保険の仕組み。日本独自の査定基準。小さい港も外さない設計。
情報網の設計。各港の商人が情報を共有する仕組み。
電信の路線案。上海との接続。
そして最後のページに、一行だけ書かれていた。
「これは、誰かのものではない。日本のものだ」
――――――
惣介は帳簿を閉じた。
しばらく、動けなかった。
財宝ではなかった。
陰謀でもなかった。
ただ、設計図だった。
龍馬が見ていた未来が、帳簿の中にあった。
惣介は目を閉じた。
汐の声が聞こえた気がした。
——龍馬さんは、人が選べるようにしたかった。それだけは本当です。
その通りだった。
全部、その通りだった。
――――――
「どうですか」坂井が静かに聞いた。
惣介は目を開けた。
「龍馬さんが書いたものです」惣介は言った。「間違いありません」
坂井は頷いた。
「二年間、守りました」坂井は言った。「函館は混乱していましたが、ここだけは動かさなかった」
「ありがとうございます」
「礼はいりません」坂井は言った。「龍馬さんの頼みだから、守っただけです」
老人の目が、また少し赤くなった。
「龍馬さんは」坂井は静かに言った。「函館を出る時、こう言いました。『坂井さん、これは儂が死んでも生き続けるものじゃ』と」
部屋が静かになった。
乾物の匂いが漂っていた。
惣介は設計図を懐に入れた。
――――――
店を出ると、函館の朝の空気が冷たかった。
惣介は澄と並んで歩いた。
「読みましたか」澄は聞いた。
「読みました」
「どうでしたか」
惣介は少し間を置いた。
「龍馬さんに、会った気がします」惣介は言った。「紙の上で」
澄は何も言わなかった。
ただ、少し目を細めた。
二人は歩き続けた。
港が見えた。
霧が出ていた。
船が霧の中に浮かんでいた。
龍馬が「北を信じていた」と澄は言っていた。
この港を見て、龍馬は何を感じたのか。
惣介には、少し分かる気がした。
まだ印のない港。
まだ誰も線を引いていない場所。
ここから始めることができる。
そう感じたのかもしれない。
――――――
「惣介さん」澄が言った。
「なんですか」
「これから、どうしますか」
惣介は港を見た。
「まだ決めていません」惣介は言った。「でも」
「でも」
「燃やしません」惣介は言った。「それだけは決まっています」
澄は惣介を見た。
「龍馬さんが言っていました」澄は静かに言った。「『受け取る人間が、決めることじゃ』と」
「受け取る人間が」
「ええ」澄は言った。「龍馬さんは、受け取る人間を信じていた。だから函館に隠した。だから坂井さんに守らせた」
惣介は懐の設計図を触った。
龍馬が信じた人間に、自分はなれるのか。
まだ分からなかった。
でも、持っている。
それで、今は十分だった。




