第十五話 函館へ
船が津軽海峡に入った朝、空が変わった。
灰色だった。
長崎の空とも、京都の空とも違う色だった。重かった。低かった。海の色も変わっていた。青から、暗い緑に近い色になっていた。
惣介は甲板に出た。
冷たかった。
吐く息が白くなった。
北に来た、と感じた。
――――――
「函館が見えてきます」澄が隣に来て言った。
「もうすぐですか」
「ええ」澄は海を見た。「函館には、何度か来たことがあります。通詞の仕事で」
「どんな街ですか」
「長崎に似ています」澄は言った。「港の街です。外国人が多い。英国領事館も、米国領事館もある」
「長崎と違うのは」
「北の果てということです」澄は静かに言った。「長崎は日本の入り口でした。函館は、どこかへ向かう途中の場所です」
「どこへ向かう途中ですか」
澄は少し間を置いた。
「それは、人によって違います」澄は言った。
――――――
函館港が見えてきた。
山があった。函館山だった。港を囲むように立っていた。山の斜面に、建物が並んでいた。
港には船が多かった。蒸気船。帆船。軍艦のような形の船も見えた。
榎本武揚の勢力が、すでに函館を掌握していた。
惣介は軍艦を見た。
戦の匂いがした。
長崎や京都とは違う種類の緊張が、港の空気にあった。
――――――
埠頭に降りると、澄は惣介を路地に連れて行った。
波止場から少し離れた場所だった。
「ここで少し待ってください」澄は言った。「顔を確認したい人間がいます」
「誰ですか」
「神谷が先に来ているかどうか、確かめます」澄は言った。「知っている顔の人間に聞きます」
「一人で大丈夫ですか」
「函館には知り合いがいます」澄は静かに言った。「長崎より安全です」
澄は路地の奥に消えた。
惣介は路地の入り口で待った。
――――――
しばらくして、澄が戻ってきた。
「神谷はいません」澄は言った。「今のところは」
「先回りされていなかった」
「下関での一件が、効いたかもしれません」澄は言った。「あるいは、別の経路で来ている可能性もある。油断はできません」
惣介は頷いた。
「協力者に会いに行きますか」
「今日は行きません」澄は言った。「まず宿を取って、街の様子を見ます。函館は今、普通の状態ではない。急いで動くより、一日観察した方がいい」
惣介は澄を見た。
この女の判断は、いつも正確だった。
「分かりました」惣介は言った。「任せます」
――――――
宿は函館山の麓にあった。
小さかった。目立たなかった。窓から港が見えた。
惣介は窓の外を見た。
港に軍艦が浮かんでいた。榎本武揚の船だった。
幕府が終わった。新政府が動いている。その間隙を縫って、榎本は蝦夷地に独立政権を作ろうとしていた。
日本の中に、もう一つの日本ができようとしていた。
惣介にはその意味が、まだ完全には分からなかった。
ただ、龍馬が設計図を函館に隠した理由が、少し分かった気がした。
函館は、どこの力も完全には届かない場所だった。
幕府も、新政府も、ここまでは手が届きにくかった。
だから安全だった。
――――――
夕方、澄が部屋に来た。
「街の様子が分かりました」澄は言った。「榎本の勢力は函館を押さえていますが、商いは続いています。外国商館も動いています」
「黒船商会は」
「函館にも拠点があります」澄は言った。「ただ、長崎ほど根が深くない。まだ手が届いていない港がある」
「設計図が示した、印のない港です」
「そうです」澄は静かに言った。「龍馬さんは、北から始めるつもりだったのかもしれません」
惣介は窓の外を見た。
港に夕陽が落ちていた。
長崎の夕陽と違う色だった。赤くなかった。橙色に近かった。
「協力者に会うのは、明日ですか」惣介は聞いた。
「明日の朝、早い時間に」澄は言った。「名前を教えます。坂井という商人です。五十がらみ。龍馬さんとは亀山社中の頃からの付き合いです」
「信頼できる人ですか」
「龍馬さんが信頼していた人間です」澄は静かに言った。「それだけで、十分だと思っています」
――――――
夜、惣介は眠れなかった。
明日、別冊を受け取る。
龍馬が残した設計図を、手に取る。
どんな字で書かれているのか。どんな内容なのか。
二年間、龍馬の帳簿を扱ってきた。龍馬の字を見てきた。数字の並び方も、メモの書き方も、知っていた。
だが設計図は見たことがなかった。
龍馬が本当に描いていた未来が、そこにある。
惣介は目を閉じた。
汐の声が戻ってきた。
——龍馬さんは、人が選べるようにしたかった。それだけは本当です。
澄の声も戻ってきた。
——世界の見方を変えた人です。
平井の声も戻ってきた。
——刀で勝っても、金の流れを作らんといかん。
全員が、同じ龍馬を語っていた。
違う言葉で、同じ人間を。
惣介はその龍馬に、明日初めて、紙の上で会う。
――――――
夜中、波の音が聞こえた。
函館の波は、長崎より低く、重かった。
岸壁に当たって、くぐもった音を立てていた。
惣介はその音を聞きながら思った。
龍馬が最後に残したものを、受け取る。
それで何をするかは、まだ分からない。
でも受け取らなければ、始まらない。
波が来て、引いた。
繰り返していた。
止まらなかった。
――――――
夜明け前、惣介は起きた。
窓を開けた。
函館の朝の空気が入ってきた。
冷たかった。
でも清々しかった。
港に霧が出ていた。
船が霧の中に浮かんでいた。
軍艦も、商船も、同じ霧の中にあった。
惣介は深く息を吸った。
今日、龍馬に会う。
紙の上で。設計図の上で。
それで十分だった。




