第十四話 神谷の手下
船が下関に寄港した夜のことだった。
惣介と澄は港近くの宿を取った。一泊して、翌朝また船に乗る予定だった。
夕飯を終えて、惣介が宿の廊下を歩いていると、気配がした。
昼間の波止場で感じた気配と同じだった。
一人ではなかった。
――――――
惣介は立ち止まらなかった。
歩きながら、頭を動かした。
宿の構造を思い出した。表の出口。裏の勝手口。階段の位置。
気配は後ろから来ていた。
惣介は部屋に戻らなかった。
澄の部屋に向かった。
――――――
戸を叩いた。
「澄さん」低い声で言った。「開けてください」
すぐに開いた。
澄は惣介の顔を見て、すぐに分かった。何も聞かなかった。
「裏口は」惣介は言った。
「確認しました。一つあります」澄は言った。「帳簿と書類は持っています」
「行きましょう」
――――――
裏口から出た。
路地だった。暗かった。
二人で歩いた。急がなかった。走ると目立つ。
路地を曲がった。
そこに男が立っていた。
一人だった。三十前後。体が大きかった。手に何も持っていなかった。だが立ち方で分かった。慣れた男だった。
「帳簿を渡せ」男は言った。静かだった。脅しの色が薄かった。仕事として言っていた。
「断ります」惣介は言った。
男は動いた。
――――――
惣介は懐に手を入れた。
刀ではなかった。
紙だった。
「これを見てください」惣介は言った。
男は止まった。
「何じゃ」
「黒船商会の帳簿の写しです」惣介は言った。「あなたの雇い主の名前が入っています。これを長崎の澄さんの知り合いに渡してあります。儂が今夜死んだら、明日の朝には長崎中に広まります」
嘘だった。
だが惣介の声は落ち着いていた。帳簿係として二年間、数字と向き合ってきた。感情を見せない訓練が、ここで使えた。
男は紙を見た。
惣介は動かなかった。
澄も動かなかった。
――――――
男はしばらく惣介を見た。
それから、一歩引いた。
「神谷さんに伝えます」男は言った。「今夜は引きます」
「伝えてください」惣介は言った。「儂を傷つけても、何も得られない、と」
男は路地の奥に消えた。
――――――
二人は宿に戻らなかった。
別の宿を探した。小さな木賃宿だった。名前を告げずに泊まれる場所だった。
部屋に入ると、澄が惣介を見た。
「帳簿の写しなんて、ありませんね」澄は言った。
「ありません」惣介は言った。
「よく動じませんでしたね」
「動じていました」惣介は言った。「ただ、顔に出さなかっただけです」
澄は少し笑った。
初めて見る笑い方だった。
「龍馬さんに似てきました」澄は言った。
惣介は複雑な顔をした。
「それは褒め言葉ですか」
「ええ」澄は言った。「でも少し、怖い褒め言葉です」
――――――
夜、惣介は眠れなかった。
神谷の手下が動いた。
神谷は長崎にいないはずだった。だが手下は動いた。
つまり神谷は、惣介たちが下関に寄港することを事前に知っていた。
船の手配は澄がした。ごく限られた人間しか知らないはずだった。
惣介は天井を見た。
情報が漏れている。
どこから漏れているのか。
澄を疑いたくなかった。だが惣介は帳簿係だった。感情より数字を信じる訓練を積んでいた。
可能性は排除できなかった。
――――――
翌朝、船に乗る前に、惣介は澄に言った。
「澄さん、函館行きの船を手配した時、誰かに話しましたか」
澄は惣介を見た。
「私を疑っていますか」澄は静かに言った。
「疑っていません」惣介は言った。「ただ、情報が漏れています。経路を確認したい」
澄はしばらく黙った。
「船の手配は、長崎の船問屋に頼みました」澄は言った。「その船問屋は信頼できる人間です。ただ」
「ただ」
「船問屋の番頭が、最近変わりました」澄は言った。「気づいていませんでした」
惣介は頷いた。
「澄さんのせいではありません」惣介は言った。「どこにでも、穴はある」
澄は少し間を置いた。
「すみません」澄は静かに言った。
「謝らなくていいです」惣介は言った。「ただ、函館に着くまで、行動を変えましょう」
――――――
船に乗った。
今度は甲板に出なかった。
船室の隅に座って、惣介は考えた。
神谷は先手を打ってくる。
函館では、さらに動いているかもしれない。
別冊の隠し場所を、先に知っている可能性もある。
惣介は隣の澄を見た。
澄は目を閉じていた。眠っているのか、考えているのか、分からなかった。
「澄さん」惣介は小さく言った。
「はい」澄はすぐに答えた。眠っていなかった。
「函館で別冊を渡す協力者は、今も動けますか」
「動けるはずです」澄は目を閉じたまま言った。「ただ、函館の状況が変わっています。榎本武揚の勢力が蝦夷地を掌握しつつある。その混乱で、どこまで動けるか」
「名前を教えてもらえますか」惣介は言った。「協力者の」
澄は少し間を置いた。
「函館に着いてから話します」澄は言った。「今は、言わない方がいい」
惣介は頷いた。
慎重だった。
それでいいと思った。
――――――
船が日本海に入った。
波が高くなった。
惣介は揺れる船室の中で、帳簿の内容を頭の中で繰り返した。
数字。港の名前。記号。空白。
全部、頭に入っていた。
帳簿は澄が持っている。
だが惣介の頭の中に、全部ある。
これが、帳簿係として二年間積んできた訓練の、本当の意味かもしれなかった。
龍馬は言っていた。「お前は数字が読める。それだけで十分じゃ」
数字が読めるだけではなかった。
数字を覚えられる。
それが、今の惣介の一番の武器だった。
――――――
夜、船が揺れ続けた。
惣介は目を閉じた。
神谷の穏やかな顔を思い出した。
あなたを傷つけたくない。それだけは本当です。
本当かもしれなかった。
だが神谷の手下は、昨夜動いた。
傷つけたくないが、帳簿は欲しい。
その矛盾が、神谷という男の本質だった。
値段次第で動く。
では、どんな値段を出せば、神谷を止められるのか。
あるいは、味方にできるのか。
惣介はまだ、答えが出なかった。
船は北へ向かっていた。
函館が近づいていた。




