第十二話 密約の書類
出発の前夜、澄が惣介を呼んだ。
事務所に入ると、澄は文机の前に座っていた。表情が違った。いつもの落ち着きの中に、何か固いものがあった。
「座ってください」澄は言った。
惣介は座った。
澄は引き出しから、紙の束を取り出した。
丁寧に折り畳まれていた。端が少し黄ばんでいた。古い書類だった。
「見てください」澄は言った。「ずっと、見せるかどうか迷っていました」
――――――
惣介は紙を受け取った。
開いた。
英文だった。読んだ。
日付は慶応二年。一年半前だった。
内容は短かった。
黒船商会と、複数の藩の代表者との間で交わされた、覚書だった。
長崎、神戸、横浜の港湾利権に関する取り決めが書かれていた。
そして末尾に、署名があった。
惣介は署名を読んだ。
止まった。
――――――
「これは」惣介は言った。
「ええ」澄は静かに言った。
署名の中に、新政府に近い複数の藩の名前があった。薩摩の商人の名前があった。土佐の商人の名前もあった。
「本物ですか」
「本物です」澄は言った。「龍馬さんが手に入れました。私に預けました」
「龍馬さんが」
「亡くなる半年前です」澄は言った。「『これを誰にも見せるな』と言いました。『ただし、別冊を取りに来る人間には見せろ』とも言いました」
惣介は書類を見た。
新政府に近い人間が、黒船商会と繋がっていた。
表向きは倒幕を叫びながら、裏では外国商社と港湾利権の取引をしていた。
「これが、帳簿の空白の答えですか」惣介は聞いた。
「そうです」澄は言った。「取引相手の欄が空白だったのは、この署名者たちを守るためです。帳簿には書けなかった」
――――――
部屋が静かになった。
燭台の灯りが、書類の上で揺れた。
惣介は署名をもう一度見た。
この名前が公開されれば、新政府が揺らぐ。
だから別冊も危ない。設計図の中に、この覚書への言及があるかもしれない。
「龍馬さんは」惣介は言った。「これをどうするつもりだったんですか」
澄はしばらく黙った。
「分かりません」澄は静かに言った。「龍馬さんは、使い方を決めていなかったと思います。ただ、持っていた。証拠として」
「交渉の道具として」
「そうかもしれません」澄は言った。「あるいは、いつか日本人が自分で判断できるようになった時のために、残した。そういう気もします」
惣介は書類を折り畳んだ。
「これも、函館に持って行きますか」
「持って行くべきだと思います」澄は言った。「別冊と合わせて、初めて全体が見える。龍馬さんはそういう設計をしていたと思います」
――――――
「澄さん」惣介は言った。「この書類を持っていたから、澄さんも狙われていたんですか」
澄は少し間を置いた。
「そうです」澄は静かに言った。
惣介は澄を見た。
この女は一人で、この書類を守ってきた。龍馬が死んだ後も。誰にも見せずに。
「怖くなかったですか」
「怖かったです」澄は言った。「でも」
「でも」
「龍馬さんに頼まれたことだから」澄は静かに言った。「それだけで、続けられました」
惣介は黙った。
汐も同じだった。
龍馬に頼まれたことを、龍馬が死んだ後も続けていた。
この二人の女が、龍馬の設計図を守っていた。
――――――
書類を澄に返した。
「帳簿と一緒に、持っていてください」惣介は言った。「明日、一緒に函館へ持って行く」
澄は頷いた。
「惣介さん」澄は言った。「一つだけ、お願いがあります」
「なんですか」
「函館で別冊を手に入れた時」澄は言った。「どうするかは、惣介さんが決めてください」
「澄さんは、どうしてほしいんですか」
澄はしばらく黙った。
「燃やしてほしくない」澄は言った。「でも、公開するかどうかは、まだ分かりません。日本がどういう状況にあるか、函館で見てから判断してください」
「龍馬さんが時期尚早だと言っていたように」
「ええ」澄は静かに言った。「時期が来たかどうかは、現場で判断するしかない」
惣介は頷いた。
「分かりました」惣介は言った。「責任は、儂が持ちます」
澄は惣介を見た。
少し、目が柔らかくなった。
「龍馬さんも、同じことを言いました」澄は静かに言った。「責任は儂が持つ、と」
――――――
事務所を出ると、長崎の夜が冷たかった。
惣介は歩きながら、覚書の署名を思い出した。
新政府に近い人間が、黒船商会と繋がっていた。
龍馬はそれを知っていた。
だから危険だった。
だから殺されたかもしれない。
惣介は空を見た。
星が出ていた。
明日、夜明け前に出発する。
函館へ向かう。
龍馬が残したものの、最後の欠片を取りに行く。
波止場の音が遠くで聞こえた。
船が動いていた。
止まらなかった。




