第十一話 神谷弦四郎
出発前日の昼過ぎ、神谷が現れた。
惣介が波止場近くの飯屋で昼飯を食べていると、向かいの席に男が座った。
断りなしだった。
「岡崎惣介さんですね」男は言った。
穏やかな声だった。笑顔だった。三十五、六歳か。細身で、身なりが良かった。着物は上等だったが、派手ではなかった。目が穏やかだった。
だからこそ、惣介は警戒した。
陸奥が言っていた。穏やかな男じゃ。だから怖い。
「神谷弦四郎さんですか」惣介は言った。
男は少し目を細めた。
「知っていましたか」
「聞いていました」
――――――
神谷は飯を頼んだ。惣介と同じものを。
それから、惣介を見た。
「帳簿をお持ちだそうですね」神谷は言った。声は穏やかだった。脅しの色は一切なかった。
「誰から聞きましたか」
「長崎は狭い」神谷は言った。「海援隊の帳簿係が帳簿を持って動いている。すぐ分かります」
惣介は飯を食べながら、神谷を観察した。
所作が丁寧だった。食べ方が静かだった。急がなかった。
この男は時間を持っている。焦っていない。
それが惣介には、一番怖かった。
――――――
「売りませんか」神谷は言った。
惣介は箸を置いた。
「いくらですか」
「坂本さんが二年かけて集めた記録です」神谷は言った。「相応の値をつけます」
「どなたのために買うんですか」
神谷は少し笑った。笑い方が柔らかかった。
「いくつかの方面から、依頼を受けています」神谷は言った。「誰のためかは、申し上げられません」
「黒船商会ですか」
「それも申し上げられません」神谷は静かに言った。「ただ、あなたを傷つけたくはない。それだけは本当です」
惣介は神谷を見た。
嘘をついていないように見えた。
だからこそ、怖かった。
――――――
「断ります」惣介は言った。
「なぜですか」神谷は聞いた。怒らなかった。
「龍馬さんが残したものです。売れません」
「感情の問題ですか」
「そうです」
神谷は少し間を置いた。
「感情は、時に正しい判断を妨げます」神谷は静かに言った。「帳簿を持っているあなたは、今、複数の方面から狙われています。売れば、安全になる。持ち続ければ、危険が続く」
「分かっています」
「それでも持つんですか」
「持ちます」
神谷は惣介を見た。
しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「函館に行くつもりですね」
――――――
惣介は止まった。
函館という言葉を、神谷は自然に言った。
「なぜそれを」
「別冊が函館にあることは、知っています」神谷は飯を食べながら言った。「私も同じ方向へ行きます」
「別冊を狙っているんですか」
「依頼を受けています」神谷は静かに言った。「ただ、回収するか燃やすか、それとも別の選択をするかは、まだ決めていません」
「まだ決めていない」
「ええ」神谷は惣介を見た。「値段次第です」
惣介は神谷を見た。
この男は、誰の側にもいない。値段が合えば動く。
澄が言っていた通りだった。
――――――
「一つ聞いていいですか」惣介は言った。
「どうぞ」
「神谷さんは、龍馬さんを知っていましたか」
神谷は少し間を置いた。
「一度だけ、会ったことがあります」神谷は言った。「長崎で。二年前です」
「どんな人間だと思いましたか」
神谷はしばらく黙った。
飯を食べ終えて、茶を飲んだ。
「面白い人間だと思いました」神谷は言った。「あの人は、商人でも武士でも政治家でもなかった。全部を少しずつ持っていた」
「それが強みだった」
「強みでもあり、弱みでもあった」神谷は静かに言った。「全部を少しずつ持っている人間は、どこにも完全には属せない。だから孤独だった」
惣介は黙って聞いた。
「あなたも」神谷は惣介を見た。「少し似ています」
「何がですか」
「どこにも完全には属せない感じが」神谷は言った。「海援隊の帳簿係だが、帳簿だけの男ではない。そういう顔をしています」
――――――
神谷は立ち上がった。
「函館でまた会いましょう」神谷は言った。「その時、もう一度話しましょう。値段の話を」
「断ります」
「そうおっしゃると思っていました」神谷は笑った。「でも函館では、状況が変わるかもしれません。覚えておいてください。私はあなたを傷つけたくない。それだけは本当です」
神谷は飯代を置いた。惣介の分も。
それから、静かに店を出た。
――――――
惣介は一人、飯屋に残った。
茶を飲んだ。
神谷という男は、敵なのか味方なのか。
どちらでもなかった。
値段次第で動く男。それだけだった。
だからこそ、一番扱いにくい人間だった。
惣介は窓の外を見た。
波止場に人が行き来していた。
その中に、神谷の姿はもうなかった。
溶け込むように、消えていた。
――――――
夕方、惣介は澄に神谷と会ったことを話した。
澄は表情を変えなかった。ただ、少し目を細めた。
「やはり来ましたか」澄は言った。
「知っていたんですか」
「来ると思っていました」澄は言った。「神谷は情報が速い。惣介さんが長崎に来た時点で、動いていたはずです」
「函館のことも知っていました」
「そうですか」澄は少し間を置いた。「では急いだ方がいい」
「明日、予定通り出発しますか」
「ええ」澄は言った。「ただ、一つ変えます」
「何をですか」
「出発の時間を早めます」澄は静かに言った。「夜明け前に船着き場に来てください」
「神谷を撒くためですか」
「撒けないかもしれません」澄は言った。「でも、先に出る意味はあります」
惣介は頷いた。
「もう一つ」澄は続けた。「帳簿は、私が持ちます」
「なぜですか」
「惣介さんが狙われているのは、帳簿を持っているからです」澄は静かに言った。「私が持てば、惣介さんへの直接的な危険が減る」
「澄さんが危なくなります」
「私は長崎で生きてきました」澄は言った。「危ない場所の歩き方は、知っています」
惣介は澄を見た。
断れなかった。
この女の覚悟は、本物だった。
――――――
宿に戻った惣介は、帳簿を取り出した。
最後にもう一度、全部を読んだ。
数字の羅列。港の名前。空白の欄。そして「汐」という名前。
龍馬がこれを作った。
龍馬がこれを残した。
そして龍馬は死んだ。
惣介は帳簿を閉じた。
明日、澄に渡す。
その代わり、自分は別冊を取りに行く。
龍馬の言葉を、受け取りに行く。
波の音が、外で聞こえた。
止まらなかった。




