第十話 龍馬の最後の言葉
出発まで二日になった朝、惣介は長崎の波止場を一人で歩いた。
頭の中を整理するためだった。
黒船商会の手口は分かった。港の情報を集め、保険を変え、荷を動かし、土地を買う。数字で動く。悪意は見えない。
龍馬はそれに気づいていた。そして対抗する設計図を作っていた。
別冊は函館にある。
では別冊の中身は何か。
惣介にはまだ、具体的なイメージが持てなかった。
――――――
波止場の端に、見慣れた顔があった。
海援隊の古い仲間、平井という男だった。四十がらみ。龍馬と亀山社中の頃からの付き合いだと聞いていた。長崎に住んでいることは知っていたが、こんなところで会うとは思わなかった。
「惣介か」平井は言った。「長崎に来ていたのか」
「少し仕事があって」惣介は答えた。
平井は波止場の先を見ていた。蒸気船が一隻、港に入ってくるところだった。
「龍馬さんのことは」惣介は言った。
「聞いた」平井は静かに言った。「残念じゃった」
二人はしばらく黙って、船を見た。
――――――
「平井さん」惣介は言った。「龍馬さんの最後の頃、何か言っていませんでしたか」
平井は惣介を見た。
「最後の頃、か」
「ええ。亡くなる前の数ヶ月で、龍馬さんが話していたことを」
平井はしばらく黙った。
波が来て、引いた。
「一度だけ、二人で飲んだことがある」平井はゆっくり言った。「慶応三年の夏じゃった。龍馬さんは少し疲れた顔をしていた。いつもの龍馬さんとは違った」
「何を話しましたか」
「金の話じゃ」平井は言った。「龍馬さんは言っていた。『刀で勝っても、金の流れを作らんといかん』と」
惣介は止まった。
「金の流れ、ですか」
「ええ」平井は続けた。「『港を繋ぐ。情報を持つ。保険を作る。それだけで、外国に飲まれずに済む』と言っていた」
「それだけのために、設計図を」
「設計図という言葉は使わなかった」平井は言った。「ただ、『仕組みを作らんといかん』と言っていた。何度も」
――――――
惣介は平井の言葉を頭に刻んだ。
刀で勝っても、金の流れを作らんといかん。
港を繋ぐ。情報を持つ。保険を作る。
それだけで、外国に飲まれずに済む。
これが龍馬の最後の言葉だった。
政治ではなかった。外交でもなかった。
経済の設計だった。
「龍馬さんは」惣介は言った。「誰かに、その話をしていましたか。仲間に」
平井は少し間を置いた。
「みんなには話さなかった」平井は言った。「薩摩も長州も、武力のことしか頭になかった。経済の話をしても、耳を貸さなかった」
「だから別冊に書いた」
「そうじゃないかと思う」平井は静かに言った。「龍馬さんは、時期尚早だと思っていたんじゃないか。今この話をしても、誰も理解できない。だから紙に残した」
「時期尚早」
「ええ」平井は船を見た。「でも、いつかは誰かが理解する。その時のために書いた。そんな気がする」
――――――
惣介は波止場に立ち尽くした。
時期尚早。
龍馬は自分が生きているうちには実現できないと、分かっていたのかもしれない。
だから別冊に書いた。
だから澄に預けた。
だから函館の協力者に隠した。
いつか誰かが取りに来るために。
「平井さん」惣介は言った。「龍馬さんは、なぜ殺されたと思いますか」
平井は惣介を見た。
しばらく黙っていた。
「理由はいくつもある」平井は言った。「見方によって違う」
「あなたの見方では」
「設計図が、一番危なかったと思う」平井は静かに言った。「武力で政権を変えようとしている人間には、龍馬さんの経済設計は邪魔だ。国を民間に任せるということだから」
「新政府の中に、敵がいた」
「いたと思う」平井は言った。「そして黒船商会にとっても、邪魔だった。日本独自の仕組みができれば、自分たちの利権が脅かされる」
「二方向から、狙われていた」
「そうじゃ」平井は波止場を見た。「龍馬さんは、敵が多すぎた」
――――――
惣介は平井と別れた。
波止場を歩きながら、頭の中で整理した。
龍馬が最後に言っていたこと。
刀で勝っても、金の流れを作らんといかん。
港を繋ぐ。情報を持つ。保険を作る。
それだけで、外国に飲まれずに済む。
この言葉が、別冊に書かれているはずだった。
もっと具体的な形で。もっと詳細な設計として。
函館に、その答えがある。
――――――
夕方、惣介は澄の事務所に寄った。
澄は書類を広げていた。
「帳簿の空白の件、少し分かりました」澄は言った。
「誰ですか」
澄は少し間を置いた。
「まだ確認が取れていません」澄は言った。「ただ、新政府に近い人間であることは間違いない」
「名前は」
「函館に行けば、分かると思います」澄は静かに言った。「別冊の中に書いてあるはずです」
惣介は澄を見た。
「知っているんですか」
澄は少し間を置いた。
「推測はしています」澄は言った。「でも確信が持てない。確信が持てないうちは、言いたくない」
惣介は頷いた。
慎重な女だった。だからこそ、信頼できた。
――――――
「澄さん」惣介は言った。「龍馬さんは、時期尚早だと思っていたと聞きました」
澄は惣介を見た。
「誰から聞きましたか」
「平井という古い仲間から」
澄は少し黙った。
「そうかもしれません」澄は静かに言った。「でも」
「でも」
「時期尚早だったとしても、書いて残す価値はあります」澄は言った。「いつか時期が来た時に、設計図があれば、また誰かが動ける」
「だから燃やしてはいけない」
「そうです」澄は言った。「少なくとも、私はそう思っています」
惣介は窓の外を見た。
長崎の夕暮れが、波止場を赤く染めていた。
蒸気船の煙が、空に溶けていた。
龍馬が最後に見ていた景色も、こんな色だったかもしれなかった。
――――――
宿に戻った惣介は、帳簿を開いた。
空白の欄を見た。
取引相手の名前がない。上海絡みの、金額の大きな取引。
この空白が、別冊に書かれている。
函館に行けば、分かる。
惣介は帳簿を閉じた。
明後日、船が出る。
龍馬が残したものを、受け取りに行く。
時期尚早だったかもしれない。
でも今は、惣介がいる。
それで十分かどうか、まだ分からなかった。
でも動かなければ、何も変わらなかった。
波の音が、窓の外で聞こえた。
止まらなかった。




